狗留尊仏信仰が息づく、のどかな集落。
豊岡市竹野町。国道178号のバイパスから側道に入り、森本の交差点で竹野海岸とは反対の方向へと進んでいく。三椒川に沿った県道を進むと、竹野町椒のシンボル「おまき桜」が迎えてくれる。おまき桜を過ぎると、目的地まではあと少し。のどかな山間の道沿いに床瀬の集落が見えてくる。
「床瀬」と聞いて思い浮かべるのはやはり「床瀬のそば」だろう。但馬での田舎そばブームの先駆け的存在であり、京阪神からもそばを目当てに多くの観光客が訪れる。
「昭和40年代後半頃、地元の女性たちを中心に生活改善グループができました。その中でそばを名物にしようという流れになったのです」とは、長年区長を務めていた河端弘仕さん。
雪深い床瀬では、冬になると男性の多くが遠方へ出稼ぎに出ていたという。村おこしとして「地元でもできることを」と、行政の協力もあり、料理研究家の土井勝先生からアドバイスをもらいながら開発した。当初は公民館で週末のみ、そばを振る舞っていたそうだ。今では4軒のそば店があり、お昼時には訪問客で賑わう。
公民館から集落内へと進む。三椒川のせせらぎが間近に感じられる道を歩くと、蔵を持つ民家が多く見られ、屋根に越屋根がついた家も発見した。これは抜気と呼ばれる換気装置で、養蚕住宅ならではの特徴だ。
「養蚕は昭和30年後半から40年半ば頃まで盛んでした。ほとんどの家がカイコを飼っていましたよ。尊仏さんから岩の欠片を持ち帰って祀っていましたね。ネズミから守ってもらえるとかで」。尊仏さんとは集落から少し離れた山中にある「狗留尊仏」のことだ。高さ約20メートル、幅5メートルの円錐状の巨岩で、縁結びの神、安産の神として崇敬されている。
明治以降、養蚕が盛んになると養蚕の神としても信仰されるようになった。少し欠いた岩のことを「お猫さん」と呼んで家へ持ち帰り、蚕室に祀るとネズミ除けになるとされた。養蚕が終わると石を戻し、感謝の気持ちを伝えていたそうだ。
毎年4月に開催され、地域が賑わう「狗留尊仏まつり」は昔からあったものの、一時途絶えていたのだとか。地域住民が一体となって復活させ、昨年30回目を迎えた。
「小学校の遠足で尊仏さんまで行っていました。岩の真下の水が溜まっている部分は今よりもっと深くて、そこに友人が弁当箱を落としたんです。すると、別の友人が潜って取ってきてくれて。今でも記憶に残っています」と笑顔で思い出を語るのは、河端さんの妻・美根子さん。美根子さんも床瀬出身。狗留尊仏が床瀬の人々に親しまれ、暮らしに根付いた存在だったことが分かる。
「今は雪が少なくなりましたが、床瀬は昔から雪深い場所でした。道も狭く除雪車が入らないので、冬になると出られなくなる。10年がかりで大きな道をつけました」と河端さん。取材で歩いた公民館前の細い路地は旧道になる。確かに細く、車がすれ違うのも難しい。区長を務めていた頃に県道712号の整備に尽力。除雪車も入るようになったため、人や車の往来が増えたという。
現在は26世帯が暮らす床瀬集落。「人も家も、昔に比べて少なくなりましたね」と少し寂しそうな美根子さんだが、こじんまりとした集落の中に民家とそば店が立ち並ぶ様子は、静かでありながら確かな活気が息づいているように感じた。
県道を整備した際に橋の名前を地域の人たちと名付けた。
椿、合歓木、桜、胡桃など植物の名前で統一させたという。
左手に見えるのが公民館。床瀬の集落はこの道沿い。
ここが県道ができる前の旧道となる。
養蚕農家の特徴である越屋根が見える。
旧道から少し開けた場所にあるお堂。夏はお堂の前で盆踊りなどを行う。
以前は床が敷かれていて、お茶を飲んだりする休憩所としても利用されていた。
お堂の中にはお地蔵様が佇んでおり、
但馬六十六地蔵尊霊場の十六番札所となっている。
御詠歌の木札が飾られている。
「昔は清水をよく汲みにきていましたね。わさびが採れたこともあります」と河端さん。
参道入口から歩いて約20分ほどで狗留尊仏へ到着する。
参道の傾斜が急になってきた頃に見えてくる狗留尊仏は神々しさを感じる。
迫力満点の狗留尊仏。今からおよそ二千万年前にできたとされる流紋岩。
下の清流を産湯に使ったり、この岩の小片をお守りにすると子どもができるなど
女性の参詣が多かったそうだ。
現在でも子を授かったとお礼参りに訪れる人が後を絶たない 。