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文化財が息づく里を歩く<養父市葛畑>(Vol.101/2017年1月発行)

かつて山陰道の宿場町として栄えた村
氷ノ山の谷あいに佇む歌舞伎舞台を始め
数々の文化財が息づく山あいの里を歩く

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文化財が息づく里を歩く<養父市葛畑>

 兵庫の尾根、氷ノ山のふもとに位置する養父市葛畑。西側には鉢伏山に連なる東鉢スキー場があり、ハチ・ハチ北とともに冬場は関西屈指のスキー場として賑わう。
 葛畑から大野峠を越えて香美町村岡区を結ぶルートは、奈良時代、文武天皇の頃に山陰道として制定され、古来より宿場町として栄えた。
 その後、東の八井谷峠にルートが変更されたが、難所だったこともあり、迂回路として人々の往来が絶えなかったという。明治32年には路線変更により国道となり、昭和43年に但馬トンネルが開通するまで山陰の幹線として流通を支えた。
 交通の要衝であった葛畑。そうした背景もあり、小さな山あいの集落にもかかわらず、文化財の数が非常に多い村としても有名だ。
 「江戸時代は、武家の名門・山名氏が治めていたので、文化的教養が高かったことも影響しているのでは」と、区長の西村武さん。
 中でも、葛畑の農村歌舞伎は代表的なもの。村のシンボルである「農村歌舞伎舞台」は、国の重要有形民俗文化財として指定され、兵庫県下に330棟もあった農村舞台の頂点に位置づけられる重要な文化財である。
 かつては各地で、雨乞い祈願や農閑期の娯楽として親しまれてきた農村歌舞伎。葛畑では江戸末期に大阪で歌舞伎を学んだ藤田甚左衛門が帰郷し、「葛畑座」を結成。周辺の村々でも公演を行い、昭和9年に戦争の影響で途絶えるまで盛んに行われていた。
 当時は紺屋(染め物屋)が3軒あり、上紺屋が衣装、中紺屋が舞台背景、下紺屋がメイクと、村芝居の域を超えるものであった。
 川いとが残る川筋の道を歩くと見えてくる農村歌舞伎舞台。廻り舞台や花道など歌舞伎舞台に大切な7つの機構を全て揃え、文化的価値も高い立派な建物。棚田越しに見る茅葺屋根の佇まいは、日本の原風景を感じさせる。
 「この舞台は使ってこそ価値がある」と話す西村さんは、葛畑座の座長も務める。昭和39年・41年の公演を経て、37年ぶりの復活公演が平成15年に行われた。同年には「せきのみや子ども歌舞伎クラブ」が発足し、その思いは但馬の子どもたちに受け継がれている。
 凛として佇む農村歌舞伎舞台。芝居に歓声を上げる往時の様子を思い起こしながら、貴重な文化財にふれてみてはいかがだろう。

農村歌舞伎舞台

天文13年(1544)に荒御霊神社境内に建てられたお堂を、大阪の歌舞伎小屋で勉強した3人の地元大工が、明治25年に芝居堂へと改修した。昭和36年には取り壊しの話も出たが、専門家の調査でその価値が見出され、昭和43年に国の重要有形民俗文化財に指定された。民家型入母屋造りの茅葺で、歌舞伎舞台に必要な7つの機構を全て備えている。「奈落を見学すれば、運気が上がる」とは、区長の西村さん。

もう一度歌舞伎を

「もう一度歌舞伎を」と願う、住民の熱い思いにより果たされた昭和と平成の復活公演の様子。舞台衣装もプロが絶賛する立派なもの。

葛畑舞台の特色である「田楽返し」

10枚の襖を90度、180度回転させることで、背景を変えたり、奥の遠見を見せる。

ブドウ棚

背景を屋根裏に吊り上げる格納庫。

奈落

地下の奈落から独楽廻式に円型舞台が回転する。

貴重な品が残る

江戸末期から明治初期にかけて作られたとされる舞台衣装。ガラス玉を使用した刺繍の打掛など、全て地元で製作された。その他にも、小道具や台本、中入りに観客に用意した弁当箱など、貴重な品が残る。

宿場町の名残が見える看板や趣のある蔵のある家々

葛畑土人形

葛畑土人形は江戸末期から昭和の終わり頃まで、窯元・前田家が4代にわたり、100点以上の作品を製作。瓦製造を営んでいた初代が冬の副業として、京都伏見で買い求めた土人形とその見聞した技法で始めたのがきっかけ。色付けが難しいとされ、目と口を優しく描くことで人形の表情が決まる。その素朴な味わいはなんとも愛くるしい。

ビュースポット

反対側の道は美しい棚田の景観と歌舞伎舞台が相まって望めるビュースポット!!