但馬ちりめん発祥の地として栄えたまち
機織りの音が威勢よく響いた旧街道には
今でもレトロな古き良きまち並みが残る
出石と丹後を結ぶ街道筋であり、古くから人の往来が絶えない豊岡市但東町中山。明治の頃は資母村に属し、中山地区には早くから学校や郵便局、銀行、役場が置かれ、村の中心部であった。
中山の歴史を語る上で欠かせないのが、高級品として隆盛を誇った「但馬ちりめん」。江戸時代の文化年間(1804〜1817)に、隣接する丹後の峰山から伝わったことが始まりとされている。
丹後との通婚によって手織り技術が伝習され、但馬の湿潤な気候が好条件となり、農業の副業的存在として発展。その後、大正年間には自動織機が導入され、戦前のピークとなった昭和10年には中山に工場が集中し、織機台数109台、従業員も210名に達した。
戦時下で一旦は減少したが、昭和35年代前半、織物組合では年平均100もの工場が家内工業として増加していったという。
「ガチャンと織れば万の金が儲かるといわれたように、羽振りが良かった時代。土間に織機を置けば家でも機屋を始められたことや、絹織物の本場である京都や丹後に近いこともあり、瞬く間に一大産地となりました」とは、織物組合の組合長を務めていた渋谷喜正さん。
赤野神社周辺では約8割の家が機屋だったそうで、朝から晩まで機織りの音が鳴り響いていたという。
「片田舎でしたが、百貨店などの商店が軒を連ね、映画館もあり、何でも揃っていました。裕福な家が多く、大学や高校への進学率も高かった」と、渋谷さんは話す。
それを表すように旧街道には、ちりめん産業を支えたと思わせる立派な家々を見ることができる。
数は少なくなったが、今でも通りを歩けば、ガチャンと機織機の心地よい音が聞こえ、往時を偲ばせる木造建の建物と相まってタイムスリップした気分にさせてくれる。
また、もうひとつ丹後との交流を示すものが、赤野神社の秋季例祭として奉納される「太刀振り」。丹後から奥藤地区に伝わった後、昭和7年に五穀豊穣や無病息災を願い始まった。小中学生と青年を中心に、太刀を振り踊りながら、勇壮な3つの舞を披露する民俗芸能。同様の芸能が残るのは県内でも赤野神社だけであり、地域の絆を繋ぐ大切な行事となっている。
暖かい春の訪れを感じる日が多くなる季節。国道を挟んだ南側の畑山地区では、恒例のチューリップまつりが開催される。可憐な花を愛でた後は、但馬ちりめん発祥のまちを歩いてみてはいかがだろう。
赤野地区の中心部に鎮座する赤野神社。10月第2日曜に奉納される「太刀振り」は、80年以上続く伝統行事。最後を締めくくる「宮振り」は、振り回した刀を縄跳びのように飛び越える勇壮な舞いが特徴。勇ましい妙技は他地区からも憧れの的で、現在も小中学生や青年を中心に20名以上が参加している。境内の脇には、芝居などが行われた「舞堂」が残っている。
大正12年建立。手彫りの動く団子をくわえているのが特徴。
中山地区の南側は「如布(にょう)」と呼ばれ、学校や郵便局、農協、銀行などがあるまちの中心地。北側の赤野地区は機織り工場が密集し、如布地区は商店や飲食店、旅館などの商店街として栄えた。今もレトロなまち並みが残っている。
旧街道の脇を連ねる家々の中には、虫籠窓や千本格子を備えた趣のある日本家屋が佇んでいる。ちりめん産業を支えた工場家屋なども残っている。数は少なくなったが、通りを歩けば、機織りの音が聞こえ、往時の様子を偲ぶことができる。
蔵雲寺は室町時代の画僧・明兆作の「絹本著色十六羅漢図」を所蔵する古刹。また、大石内蔵助の妻りくが義士の討ち入り成就と冥福を祈ったと伝えられる「千体仏」が祀られている。
兵庫県内唯一の球根生産地だった旧但東町で、平成4年から始まった「たんとうチューリップまつり」。今では但馬に春を告げる風物詩として、各地からたくさんの人が訪れる。趣向を凝らした名物「フラワーアート」が人気!!
小学校の隣りに鎮座する「如布神社」。秋祭りでは太鼓屋台が練り歩く「囃しこみ」や、獅子舞による「如布神楽」が奉納される。
モンゴルとの交流を記念して開館した「日本・モンゴル民族博物館」。移動式住居ゲルや国内有数の民族資料を収蔵している。