浜坂の氏神として鎮座する宇都野神社
麒麟獅子舞や神輿、鉾が練り歩く
夏の例大祭「川下祭り」の参道を往く
北前船の廻船業で栄えた商人の町として、多くの文化人を輩出してきた港町・新温泉町浜坂。
昨年5月には鳥取県・因幡地域から但馬地域で伝承されている民俗芸能「麒麟獅子舞」が日本遺産に認定。ここ浜坂でも宇都野神社の例祭で奉納され、麒麟獅子舞の里としても知られている。
今回は浜坂駅を起点に、宇都野神社までを裏路地探険。新温泉町の玄関口である浜坂駅は、明治44年11月に開業した山陰線でも古い駅の一つ。当時は出雲から延びる山陰西線の終着駅であり、翌年の余部鉄橋・桃観隧道(トンネル)の開通により、山陰東線と連結し、京都・出雲間が山陰線として結ばれた。
「終着駅であったこともあり、構内には給水塔や転車台、石炭置き場が設置され、全線開通後も米子・福知山鉄道管理局の分岐駅として発展しました。かつては客車用に4線、貨物用に2線と、合計6番線まであったんですよ」とは、地元でガイドを務める味原川清流会の岡部良一さん。
古くから因幡との交流が深く、江戸中期からは天領だったこともあり、浜坂は他の但馬地域にはない独特の文化が育まれたという。
「ガイドをしていて、ここは同じ但馬かと驚かれる人が多いです。因幡から伝わった麒麟獅子舞をはじめ、独自性と伝統や文化に誇りを持っていることが浜坂人の特徴ですね」と岡部さんは話す。
駅から線路沿いを西へ歩き、歩道橋を渡ると、宇都野神社までの参道が伸びる。但馬三大祭りの一つ「川下祭り」では、神輿や鉾などの「渡御行列」がこの参道から浜辺の御旅所に向かって練り歩く。
線路から南側は宇都野町と呼ばれ、海側の市街地と比べて閑静なまち並みが広がる。
参道の途中には、明治の教育者・森梅園や、浜坂ちくわの発展に貢献した高垣治三郎などの顕彰碑が佇み、桜の名所として親しまれている「浜坂護国神社」を過ぎると、宇都野の森が姿を現してくる。
目を引くのは巨大な鳥居もさることながら、石燈籠、狛犬をはじめ、立派なものが寄進されていること。本殿へと上る階段は新調されたばかりで、浜坂の人にとって、神社と祭りが重要な位置を占めていることが分かる。
創建は不明であるが、「牛頭天王宮」と称され、明治6年に現在の社名になった。境内には本社の他、様々な神を祀る社が建ち並ぶ。中でも浜坂らしいのが「針神社」。縫針の産地であったことが由来で、今も一貫生産では国内唯一のメーカーであるレコード針の製造会社がその伝統を受け継いでいる。
今年は残念ながら、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、夏の例大祭「川下祭り」は、中止となってしまった。疫病退散の神として祈りを込め、厳かに神事のみが行われる。
かつては「牛頭天王宮」と呼ばれ、疫病退散の神として崇敬を集めた。夏の例大祭である「川下祭り」は、天領に変わった享保12年(1727)以後、京都八坂神社(祇園社)の大祭にちなんで行われたのが始まりとされる。社殿を覆う森はスダジイ、スギ、サカキ、クスなどが生い茂り、県指定天然記念物「暖帯性植物原生林」に指定。
境内には昔、大鮑が舟の穴をふさぎ、遭難を救ったという伝承が残る「鮑の霊水(右)」が湧き出ている。航海の際に持って行くと、風雨の難をまぬがれるとされ、漁業者の信仰が篤い。「針神社(左)」は縫針の産地として栄えたことに由来。
鳥取県東部・因幡から伝わったとされる但馬の麒麟獅子舞。宇都野神社では、7月の川下祭りと10月の秋祭りで奉納される。因幡とは違い、テンポが早く、太鼓、笛、銅拍子(ジャンジャン)が賑やかに囃されるという特徴がある。特に二頭舞(雌雄の舞)が行われるのは、浜坂と諸寄だけである。獅子に頭を噛んでもらうと、子どもは元気に育つとされる。
駅のれんが掛かる非常に珍しい駅で、構内には貴重な鉄道グッズを展示している「鉄子の部屋」が隣接している。明治45年の開通祝賀式では、浜坂芸妓30名が踊り、町民総出で開通を祝った。
開業当初から残る貴重な遺構物である浜坂駅の給水塔。蒸気機関車の水を補給するために設置された。
川下参道沿いには、浜坂の発展に貢献した顕彰碑が点在している。漢学塾「浜坂味道館」を開いた教育者「森梅園顕彰碑」(左)。浜坂漁業、浜坂ちくわの発展に貢献した「高垣治三郎顕彰碑」(中)。養鶏産業の功績を讃える「鶏之碑」(右)。
日清・日露戦争の戦没者慰霊のため建立された「浜坂護国神社」。地方の町に護国神社があるのは珍しいと言う。
浜坂護国神社の隣には「浜坂相撲場」があり、郷土力士を輩出している。