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玄武岩と赤い石の「石のまち」を歩く<豊岡市赤石>(Vol.116/2021年11月発行)

玄武岩と赤い石が並ぶ
まち並みは、まるで石垣の美術館。
塩と水との戦いの歴史をひもときながら赤石を歩く。

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玄武岩と赤い石の「石のまち」を歩く<豊岡市赤石>

 160万年前の火山活動によって形成された国の天然記念物「玄武洞」。規則正しい六角形の柱が並ぶ柱状節理は圧巻で、山陰海岸ジオパークの代表的なスポットとして多くの観光客が訪れている。
 その玄武洞がある豊岡市赤石は採石で発展した集落だ。赤石の地名の由来は「赤い石」がとれたから。まさに石のまちだ。
 昔、玄武洞公園周辺は30ヶ所以上もの採石場が点在していたという。その中でも玄武洞は大規模な採石場の1つだった。江戸時代の観光案内『但州湯嶋道中独案内』には「珍しい石をとる採石場があるので見に行ってみては」と紹介されている。
 玄武洞ミュージアム館長の田中栄一さんは、昔の写真を眺めながら「赤石は採石が有名ですが、実は塩と水との戦いの地だったんですよ」としみじみと話す。その写真は昭和40年に行われた土地改良工事の様子だ。
 赤石の田んぼは集落を流れる円山川の水位より低い位置にあり、多くの田が常に湿地のような状態であった。腰まで水に浸かって農作業をし、水路に船を浮かべて行き来していたそうだ。
 集落を流れる円山川はこの辺りから河口までは汽水域となるため、毎年6月頃になるとその水が逆流し、田んぼが塩水に浸かってしまい米が作れなくなってしまっていた。公園に建てられた記念碑からは、土地改良工事の完成が赤石の人々の悲願であったことが伺える。
 水害の多い地域だった面影は民家の石垣が物語っている。赤石のまち並みの特徴は、玄武岩で積まれた立派な石垣だ。低地にある民家の石垣は高く、山側へ行くほど低く積まれている。玄武岩の石垣の中には、地名の由来となった「赤石」の石積みも見られ、そのコントラストが集落の美しい景色を作り出していた。集落の奥に鎮座する兵主神社でも敷石として玄武岩がふんだんに使用されており、参道横には赤石がゴロゴロと転がっている。石のまちならではの佇まいをいたるところで見ることができる。
 「この辺りも昔は水路でした。地区ごとに船付き場が4ヶ所ほどあり、川魚が本当によくとれました」とは区長の稲葉政弘さん。魚をとったり、池や沼地に生える菱の実を船でとりに行き、おやつとして食べていたという水郷らしいエピソードを懐かしそうに話してくれた。
 「私が幼い頃は、玄武洞と対岸の玄武洞駅までの渡し船を、赤石・二見地区の当番で行なっていました。父が『今日は渡船の日』と出かけていたのを覚えています。20人乗りの船を竿一本で操船していましたね」と船にまつわる思い出話を次々と語ってくれた。
 水で苦労した地域だが、その水があったからこそ、採石のまちとして発展したという。
 「山でとれた石を転がして円山川まで運び、20人乗りの船に乗せて出石や久美浜(京都府京丹後市)の方まで運んでいました。川がなかったら大きく重い石を運搬することはできなかったですね」と田中さん。大正時代になると、玄武洞は採石場から観光・地質資源へと変わり、点在していた採石場は徐々に姿を消していった。
 今は立派な道と広々とした田んぼが続く赤石地区。昔話に思いを馳せながら石垣のまちを歩くと、石と水とともに生活していた水郷の里の景色が蘇ってくるようだ。

屋敷跡

麓の家の少し上のあたりにも、昔は民家が多く建ち並んでいたそう。「今でも屋敷跡がたくさん残っていますよ」と田中さん。

石垣

石垣の積み方も多様で、様々な表情を見せてくれるのがおもしろい。石垣の美術館のよう。

民家の石垣で見られる赤い石の積み石

周りの黒い石は玄武岩。

兵主神社

兵主神社では2月17日に近い日曜に「千本もちつき」が行われる。公文書が焼失しているため詳細は不明だが、かなり古くから伝わる伝統行事とされている。五穀豊穣・無病息災・家内安全などを祈願しながら、大きな蒸し桶でもち米を蒸しあげ、4人のつき手と1人のまぜ手が「ホイホイ」と気を合わせて、棒状の杵を使ってつきあげる。また、祭り当日は祠の周囲を周って「お千度参り」を行う。

お千度参りで使用する竹串

赤石地区の昭和30年代頃の様子

船に乗って田んぼを行き来していた。うなぎなどの魚もよくとれていたそう。

土地改良碑の前には赤石が展示されている。

赤石の地名の由来となった赤い石

マグマの熱によって鉄分がとけてできた赤い斑点模様が特徴の流紋岩だ。