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清富陣屋の面影を尋ねる<新温泉町清富>(Vol.117/2022年3月発行)

川の付替えによる洪水に立ち向かった
先人たちの苦労の歴史。
清らかな観音山が見守る、碁盤目状の陣屋町を往く。

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清富陣屋の面影を尋ねる<新温泉町清富>

 集落の北側に標高245メートルの観音山を背負い、久斗川と岸田川の合流点に接する新温泉町清富。浜坂から清富橋を渡り、土手沿いの道からまちを見下ろすと集落が木々にぐるりと囲まれているように見える。
 清富のシンボル的存在となっている相応峰寺は観音山一帯が境内となっている。山頂に本堂、山裾に里坊があり、地元の人からは「おうみねじ」と呼ばれて親しまれている。寺には全国から人生相談に来る人が後を絶たず、取材中にも次々と参拝者が訪れていた。奈良時代の開山当初は九品山極楽寺と称されていたため、古くは清富を「極楽寺村」と呼んでいたそうだ。
 里坊の裏手には山頂の本堂「圓通殿」に続く山道がある。圓通殿まで30分ほどの、ハイキングにも丁度いい距離の参道だ。
 「観音山全体に120体以上もの石仏が点在しているのが特徴です。これだけの数の石仏がある参道は珍しいと思います。石仏には西国三十三観音霊場と四国八十八霊場の名が刻まれていて、四国などの現地に行かなくても巡礼ができるんですよ」と案内役の岡部良一さん。参道を進むと時折木々の間から海が見え、木漏れ日が気持ちいい。数メートルおきに顔を見せてくれる石仏は、山頂までの道のりを見守ってくれているようだった。
 相応峰寺の里坊から50メートルほどの場所には清富陣屋跡が残っている。敷地内には記念碑が建てられ、かつての陣屋を囲んだ石垣と池が現存しており、往時の面影を見ることができる。清富陣屋の歴史は江戸時代初期、浜坂周辺を支配していた宮城豊嗣が、同町芦屋にあった陣屋を清富へ移したことに始まる。その際に町割が整備され、碁盤目状のまち並みが築かれた。極楽寺村から清富に名前を変えたのもこの時。御屋敷、殿町、町などの陣屋町らしい小字名が今も残っている。
 豊嗣の政策の中で清富に大きな影響を与えたのは「岸田川の付替え」だという。岡部さんは古地図を見ながら説明してくれた。
 「豊嗣は岸田川の流れを直角に曲げたんです。その理由は2つ。田んぼの面積を増やして年貢量を増やすため。そして陣屋防御のための堀ですね。しかしその不自然な流れがたびたび氾濫を呼び、ここは洪水との戦いの地となりました」。
 集落が木々にぐるりと囲まれているように見えたのには理由があったのだ。人々は土を盛って堤防を築き、木々を植えて川の氾濫からまちを守っていた。今でも石垣などの堤防跡の一部を見ることができる。
 豊嗣は年貢の石高を8千石から1万2千石に増やし、領民に重税を課したが、39歳の若さで死去。お家断絶となる。昔の人は「これは人々を苦しめた天罰だ」と言ったそうだ。
 そして昭和9年(1934)の室戸台風で大きな被害を受け、昭和13年(1938)から岸田川の2度目の付替え工事が行われ、今の姿となった。
 「この頃はちょうど戦時中で男性がいなかったので、村の女性たちが『いい稼ぎになる』と作業をしていたそうですよ」と岡部さん。なんとも頼もしいエピソードだ。
 地形が語る清富の歴史。今は穏やかで閑静なまち並みだが、水害に翻弄された人々の思いが伝わってくる裏路地探険であった。

観音山の展望台からの眺め

清富のまち並みが一望できる。

清富陣屋跡に残る石垣と池

清富陣屋跡記念碑

記念碑の横には浜坂と清富の境を示す石柱がある。この石柱は昭和期に行われた2度目の岸田川の付替え工事の際に現在地に移された。

共同井戸は陣屋町として賑わった往来の人々の泉だった

相応峰寺

相応峰寺は但馬西国三十三観音霊場、第29番札所。奈良時代から続く歴史ある寺。本尊「十一面観音立像」は国指定重要文化財に指定されている。ご開帳は毎年4月18日の春の例祭の日のみ。

西国三十三観音霊場と四国八十八霊場の名が刻まれている石仏

よく見るとそれぞれに札所番数とお寺の名前が刻まれている。

石仏が点在する観音山の参道

清富の集落を囲うように作られた堤防の跡