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石に刻まれた歴史をたどる<朝来市和田山町竹田>(Vol.35/1999年7月発行)

竹田城跡のふもと寺町通り
線路沿いの静かな町並みに
石仏や石橋に刻まれた文字を読む

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石に刻まれた歴史をたどる<朝来市和田山町竹田>

 古城山(標高353m)の頂に、どっしりとした石垣の姿を見せる竹田城跡。戦国時代、この地を舞台にどのような物語が繰りひろげられていったのだろうか。その歴史をたどる路地が、山のふもと竹田城主の菩提寺などが建ち並ぶ寺町通りにある。かつては、武家屋敷があったところ、慶長・宝永・明治と大火にあい、その後復興してできた町並みと言われている。
 瓦屋根に白壁の駅舎、JR播但線竹田駅から散策へ出発。側にある高架下をくぐり寺町通りへと抜ける。線路で隔てられた山裾の一角。目の前には山が迫り、木々の切れ目から頂を見上げると、意外にも間近に竹田城跡を確認することができる。少し進むと、見事な松の並木、石垣に白壁の塀、大きな門構えの4つの寺が続く。竹田の歴史をさかのぼるようにひとつひとつの寺を訪ねて行く。
 最初にある寺、法樹寺は竹田城最後の城主となった赤松広秀の菩提寺。現在のような豪壮な石積みの城郭を築き、文人としても優れ領民から慕われる武将であったが、 関ヶ原の合戦で西軍に属し敗北。その後、鳥取城攻めで、鳥取城下に火を放ったとされ自刃した。
 次にある勝賢寺は、広秀の前の城主、桑山修理太夫重晴ゆかりの寺。重晴の嫡子夫妻の墓碑と伝えられる五輪の双塔が庭にある。常光寺は初代城主太田垣光景の菩提寺。 光景は、但馬の守護大名山名宗全の四天王の一人で、土塁をもとにした竹田城を13年の歳月を費やして築いたと伝えられている。しかし、織田信長の命による羽柴(豊臣)秀吉の但馬征伐により敗北。石塔が光景の墓碑として残っている。慶長5年(1600)、城主をなくしてからは、生野銀山代官所の幕府直轄領(天領)となる。
 並びの最後にある善證寺は古い歴史を持つ寺。それぞれの寺にかかる石橋は全て江戸時代につくられたものだが、その中で最も古い宝永4年(1707)の文字が常光寺の橋に刻まれている。但馬で確認されている江戸時代の石橋7つの内の5つがこの竹田に集中しているのだ。
 寺を抜けても静かな佇まいの民家が続き、家の前の川には錦鯉が放たれ、色とりどりの花が咲くプランターが並べられた、歴史散策の心和む空間がつくり出されている。つきあたりには、 全国でも大変珍しい半円形に六段の石積みの桟敷席がある表米神社へ昇る石段へとたどりつく。山へ向かって続く長い階段、途中からは、竹田の町並みが見下ろせる。造り酒屋さんの長い煙突、旧街道として栄えた町屋。時折、路地をさえぎるように走り抜けていく列車も違和感なく生活のリズムにとけ込んでいるように見える。城下町独特の風情を持つ竹田地区は、平成10年11月、県の景観形成地区に指定された。
 竹田は古い歴史を持ちながら、再三の大火にあい、記録となる文献が少ないとされているが、石塔や石仏、石碑などに刻まれた文字が竹田の歴史を知る手がかりとなる。辻外れの小さな祠に佇む石碑にも、側面や裏面に回ってみると、誰が何のために建立したのか、かすかな文字が読みとれる。
 竹田城跡の石垣に象徴されるように、石をたどると竹田の歴史を知ることができる。
※記事の内容は1999年7月掲載当時のものです。

4つのお寺にかかる江戸時代にかけられた石橋

遮断機越しに見える造り酒屋の白壁と長い煙突

表米神社の半円形の石積段型桟敷、全国でも大変珍しいもの