»一覧ページへ戻る

大谿川のせせらぎ木屋町通り<豊岡市城崎町湯島>(Vol.42/2001年11月発行)

桂小五郎が駆け抜け
志賀直哉や与謝野晶子が散策し
芸妓さんの三味線が響いた路地

大谿川のせせらぎ木屋町通り<豊岡市城崎町湯島>(Vol.42/2001年11月発行) マップを拡大して見る

大谿川のせせらぎ木屋町通り<豊岡市城崎町湯島>

 城崎温泉は、古くから狭い谷間に開けた山陰の名湯。町の中心を大谿川が流れ、柳並木や太鼓橋、三階建ての旅館が建ち並び独特の町並みをつくり出している。その中にあって、木屋町通りは、賑やかな温泉街から少し入った大谿川沿いの静かな小径、さまざまな人々が行き交った面影を彷彿とさせながら歩く。
 木屋町通りの変遷は、残されている史料の古地図から、江戸後期までは家が数軒ほどしかなく、その他は田畑で、家が多く建ちはじめたのは明治になってからと考えられている。しかし、大正14年の北但大震災でほとんどが崩壊。復興にあたって、京都木屋町の美しい川沿いの風情をモデルに、河川・道路の整備が進められた。
 あわせて芸妓の館、置屋も木屋町に集められ、昭和30年代には城崎にあった置屋9軒の内6軒が、さらに、芸妓が芸の練習をする検番(歌舞練場)もあり、三味線の音色が路地に響き、80人の芸妓がいたと言われている。お座敷に出かけることを「芸妓さんがお花に出られる」と言い、お正月には紋付き裾引きの装いで、ひいき筋の旅館などへ新年のあいさつに回る艶やかな姿が湯の町、木屋町界隈に繰りひろげられた。しかし、昭和60年代には置屋も減ってしまい、現在はなくなり使われなくなった検番の建物だけが残されている。
 志賀直哉が滞在していたのは、震災前の大正2年、山の手線の電車にはねられ重傷を負い、三木屋で養生していた。裏庭が木屋町通りに面し、さらに、幕末維新の頃、尊攘派の志士、桂小五郎が京都から逃げのび宿泊していた、つたや旅館も隣接している。
 現在の木屋町通りは、一の湯の前にかかる「王橋」からまんだら湯の「まんだら橋」まで約500メートルの距離に、19本の橋がかかり、約80本の桜並木が続く。橋は木、石、コンクリート、鉄の素材を使ったものや朱色の欄干とさまざま。生活の空間として花鉢も並べられている。橋を渡って対岸を見渡すと少し視線も変わる。山の緑が意外に近く、狭い谷間の温泉地であることを実感する。
 また、桜並木も四季それぞれに風情を加える。春の桜は特に見事、夏は心地良い木陰をつくり出し、秋は落ち葉がゆったりと川面を流れ、冬は雪景色、小枝からぱらぱらと雪が落ちる様もおもしろい。
 木屋町通りを整備し、保存していこうと、大谿川沿いの住民で木屋町振興会も発足している。向井去来や野口雨情の歌碑の設置、花を植え、縁台を設け、 ギャラリーや万灯、流し雛などのイベントも商工会とともに展開している。
 さらに、少し足を延ばせば高僧・沢庵が再興した古刹、極楽寺へ。外湯めぐりに、お土産物屋や遊技場が並ぶ通りを歩くのも楽しいが、ちょっと路地に入り込む寄り道もおすすめだ。
※記事の内容は2001年11月掲載当時のものです。

櫓のモニュメント

春の木屋町通り

川面にも咲き誇った桜が映り美しい。夜はぼんぼりがともり幻想的。

木屋町通りのいろいろな道しるべ

極楽寺

沢庵和尚が再興した極楽寺。山門は江戸中期のもの。美しい石庭を眺めながら境内で一休み。

格子が見事なお家

橋の表情もさまざま

料理屋のお品書きケース。朱色の欄干とコーディネイト

花鉢が並ぶ庭風の橋

木の欄干、幅も狭い