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古墳の里めぐり<朝来市和田山町東河>(Vol.51/2004年7月発行)

古墳時代、但馬を統治した権力者が
この地方を基盤にしていたという古墳群
心優しい心諒尼にまつわる縁の里を歩く

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古墳の里めぐり<朝来市和田山町東河>

  和田山町東河地区は、小丸山古墳、長塚古墳、かぶと塚古墳など古墳の密集地帯である。数々の貴重な出土品からも、但馬を統治した権力者がいたことが想像される。東河地区で見つかった古墳はすべて竪穴式である。そして、養父市大藪の大型横穴式古墳へとつながっていく。
 また、ここは心諒尼にまつわる縁の里でもある。元文3年(1738)、生野代官支配下で百姓一揆が起こり、死罪6人を含む23人の犠牲者が出た。その中に当時35歳であった野村の小山弥兵衛がいた。弥兵衛ら8人は今の長崎県壱岐島へ流罪となった。
 時は移り、祖父の健在を知った弥兵衛の孫娘は、祖父に会いたい一心で桐葉寺(山東町)に入り、尼として修行すること10数年。師の許しを得て、祖父を訪ねて壱岐島に渡り、祖父の介護をすること3年。80歳で亡くなった祖父の遺骨を携えて帰郷した。
 まもなく、円明寺(和田山町宮)の門に入り、法名を心諒と改め、水月庵を再興した。祖父の菩提を弔いつつ、4人の弟子を育成し、村の女性たちに生け花や茶道などを教え50年。天保14年(1843)、至誠一貫の生涯を79歳にして閉じたと伝えられる。
 法宝寺には、心諒尼のゆかりのクスノキが残っている。弥兵衛は自分が無事であることを村の人々に伝えてほしいという願いとともに、3本のクスノキの苗木を持ち帰らせた。心諒尼はこれを小山家、夜久家(弥兵衛の母の里)、浜家(弥兵衛の妻の里・現法宝寺)に植えた。現在、残っているのは法宝寺のクスノキだけだそうである。また、この法宝寺には天正5年(1577)、豊臣秀吉の但馬攻めにあったとき、その際寺を兵火から守るための禁制札がおかれた。その札を見学することができる。
 心諒尼が庵をむすんだ水月院は、6代目に当たる諒英さんがしっかりと守っている。ここから、坂道をもう少し登ると心諒尼公園がある。ここには心諒尼の墓標も祀られている。
 和銅7年(714)、長屋王邸宅跡の木簡の中に「刀我」の名前が残っていることからも、この地区は古くから栄えていたことが想像できる。石部神社の池や大森湧水など美しい湧き水が豊かな土地を潤し、人々の確かな暮らしを支えてきたことだろう。
 心諒尼のお話は、『遥かなり壱岐 流人小山弥兵衛と心諒尼の物語』(柴田東一郎著)という本になったり、「心を繋ぐ子守唄│心諒尼物語│」と題してミュージカル公演されたりして、人々の心の中にしっかりと語りつがれている。

心諒尼の墓標

祖父である小山弥兵衛の墓も近くにある。

みんなが憩う公園

心諒尼を偲びみんなが憩う公園に整備されている

水月院

心諒尼が再興し、女性たちの教育にたずさわった。

法宝寺に残る心諒尼ゆかりのクスノキ

ひっそりと佇む東河村役場跡の道路元標(明治22年)