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豊岡城下、歴史の跡をたどる<豊岡市京町>(Vol.53/2005年1月発行)

神武山のふもとはかつての城下町
明治の英才たちが暮らした
歴史情緒あふれる家々が並ぶ

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豊岡城下、歴史の跡をたどる<豊岡市京町>

 豊岡市京町地区の中心に位置する神武山。今はなき豊岡城があったこの山のふもとは、かつて武家屋敷が建ち並ぶ城下町だった。 中世は後白河法皇の私有地で「城崎荘」といわれており、 羽柴秀吉の但馬平定後、「豊岡」と改名され、豊岡城と城下町が形成された。
 神武山は、東に蛇行する円山川、西にそびえる山々を自然の城壁として利用できることから、豊岡城が築城された。町並みには今も城下町特有の姿がみられる。敵の進入を防ぐために鍵型に曲げられた道筋や南北に巡らされた内堀などである。
 江戸時代に豊岡城が廃城された後、 神武山のふもとには陣屋が置かれ、明治維新に至るまで京極家による統治が続いた。陣屋跡には現在市立図書館が建っているが、その建設に伴っての発掘調査では、織豊期・江戸時代の建物跡など多くの遺物が見つかっている。 
 藩邸があった図書館一帯は武家屋敷が取り囲み、高級家臣ほど藩邸の近くに住んでいたという。赤穂浪士の討ち入りで有名な大石内蔵助の妻りくは、この辺りに屋敷をかまえていた京極家の筆頭家老、石束家で生まれた。離縁後は子どもを連れてこの地に身を寄せていたそうだ。
 幕末から明治時代にかけて、この武家屋敷に住んでいた豊岡藩の家臣からは数多くの偉人が生み出されている。その顔ぶれは、京都大学名誉教授の猪子止戈之助、東京大学教授の和田垣謙三、文部大臣の久保田譲、豊岡市上水道建設費を全額寄付した鉱山王の中江種造など、実に多士済々であった。
 図書館の西隣に今も残っている五軒長屋には、後に東京大学総長となる浜尾新が住んでいた。この長屋は、浜尾家が江戸から豊岡に引き上げることになった時、藩が大急ぎで武器庫を改造し、用意した住まい。幼くして父を失った浜尾は、長屋で内職をしながら勉学に励んだという。夜は天井から紐を下げ、それを首にぶらさげて睡魔と戦いつつ読書したという逸話も残されている。
 藩邸内の東側には藩校の「稽古堂」があり、士族の子弟は7歳になると入学が強制された。講師をしていたのは、幕末期に当代一の儒学者といわれた池田草庵。藩主の懇請を受け、出張講義をしていたのだ。
 また、豊岡藩では人材育成のために藩費遊学(奨学金)制度があり、浜尾新を含め、この制度に支えられて後年大きく羽ばたいた人は数多い。勉学熱心な子弟たちの礎は藩のこうした体制からも育っていったのだろう。

五軒長屋

浜尾新が暮らしていたという五軒長屋は、現在も保存されている。

豊岡小学校前の通り

本丸跡から見た豊岡の町並み(南方向)

町並みにとけ込む玄武岩

神武山頂上

春は満開の桜が咲き、花見客や行楽客で賑わう。