»一覧ページへ戻る

前田純孝の故郷を歩く<新温泉町諸寄>(Vol.57/2006年1月発行)

先人たちの碑が点在する小さな漁業の町
風待ちの廻船が訪れた穏やかな港と
焼き板の家々が味わい深い町並みをつくる

※この記事は現在準備中です。

前田純孝の故郷を歩く<新温泉町諸寄>(Vol.57/2006年1月発行) マップを拡大して見る

前田純孝の故郷を歩く<新温泉町諸寄>

 港を囲むように家々が密集した町並みは、どこか懐かしく独特の雰囲気が漂う。
 時を経て味わいを増した焼き板の壁や浜へと通じる入り組んだ路地・・・まるで映画のワンシーンのような風景に惹かれ、キャンバスを手に訪れる人の姿もある。
 古くから天然の良港として栄え、北前船の寄港地でもあった諸寄港。東西の岬に囲まれた穏やかな入江は、諸国の廻船が風待ちの港として利用した。
 西側の岬は日和山と呼ばれ、昔はここに立って天候を予測したという。高台にある諸寄港日和山灯台の傍らには、廻船の道しるべとなった常燈(灯明台)の一部が今も残っている。
 港の南端にある為世永神社は、航海の安全を祈願する船乗りたちの信仰を集めた。境内には地元や諸国の廻船業者から寄進された灯籠や玉垣がある。
 また、江戸時代から明治にかけて奉納された5枚の船絵馬は浜坂町文化財(現新温泉町文化財)に指定され、現在は諸寄の中心部にある八坂神社祈願所に保管されている。いずれも実在した船が描かれており、その交易記録によると、諸磯砥石(諸寄の語源と考えられる)といわれた諸寄の特産品も積荷の中にあがっている。
 第二次世界大戦が始まるまで、この地域では砥石が産出され、中砥(中間の工程で使う砥石)として全国で重宝された。独特の柔らかさを愛で、遠方から買い付けにくる大工さんもいたそうだ。
 近年は、明治の歌人・前田純孝の故郷としても知られている。病に倒れ、晩年をこの地で過ごした純孝は、死の直前まで短歌をつくり続けたという。
 「いくとせの前の落ち葉の上にまた落ち葉かさなり落ち葉かさなる」
 昭和44年、村の有志によって建立された諸寄海岸の歌碑には、晩年の歌が刻まれている。今も熱心に手入れする人があるのだろう、雪の白浜を背にそびえる歌碑は美しく、清澄な純孝の姿を思い起こさせる。
 純孝にまつわる歌碑や地元出身の先人たちの顕彰碑などは、諸寄に数多く点在している。飛騨平湯の社会教育を指導し、今も「飛騨聖人」と名高い篠原無然や最期の絵師と称される美人画家・谷角日沙春なども諸寄の出身だ。
 偉大な先人たちに共通するのは、この土地に収まることなく、全国各地に活躍の場を広げたこと。海と山に挟まれた小さな漁村は、大海へこぎ出そうという強い意志を育てたのであろう。

焼き板

路地に入ると焼き板の家々が軒をつらねる。江戸時代は宿場が多かったそうだ。

常燈

長年港を見守ってきた常燈の一部。「常夜燈」より古い言葉であることから、江戸時代のものと考えられる。

幸神丸船絵馬

八坂神社の「幸神丸船絵馬」には、絵馬師・吉本善京の落款が入っている。当時、落款入りのものは特に高価だったという。

城山園地

東の岬、城山園地からは諸寄が一望できる

前田純孝賞受賞歌碑

第2回前田純孝賞受賞歌碑「どの道もまっすぐ行けば浜に出る 不思議な村に君は生まれる」