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宵田商店街を歩く<豊岡市中央町>(Vol.68/2008年10月発行)

玄武岩の重厚な石垣が伝える「宵田のいと」
但馬各地から人や物が集った商人の町
元気を発信するカバンストリートを歩く

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宵田商店街を歩く<豊岡市中央町>

 その昔、「三たん(但馬・丹後・丹波)一の商店街」と呼ばれた豊岡市の宵田商店街。通りを歩けば、人の肩にぶつかるというほど賑わいを見せたという。4代、5代と続く老舗の商店や家屋が軒を連ねる。
 宵田の商店街が発展したのは、羽柴(豊臣)秀吉の但馬平定後、神武山に豊岡城が築かれ、城下町が形成されたことに始まる。江戸時代には、山のふもとに陣屋が置かれ、藩邸のあった現在の豊岡市立図書館(京町)を取り囲むようにして、武家屋敷が建てられていた。
 そこから北へ進み、戸牧川にかかる宵田橋を渡ると、商家が立ち並ぶ。京町が豊岡の政治の中心であれば、宵田は経済の中心であった。
 では、なぜ宵田が商人の住む町となったのか。その答えは、円山川の歴史に隠されている。市民会館前を流れる廃川は、昔、円山川の本流であった。車のない当時、輸送の主役は船。川沿いには、「宵田のいと」と呼ばれる船着き場が整備され、年貢米を始め但馬の大部分の物資が運ばれてきたという。
 また、城崎温泉に向かう湯治客も円山川の船便を利用したといい、まさに人と物が集まるターミナル港であった。「宵田のいと」は円山川の洪水の度に補強され、大正年間には石垣の高さは3〜4メートルを誇り、時代が経つにしたがい堅固な護岸になったという。岸から約30メートル先まで敷き詰められた沈石が、難工事を物語る。
 古老から伝え聞いたという地元の人の話では、家の裏から釣りができたという。川が身近にあったことを偲ばせるエピソードだ。
 輸送の主役が鉄道、車に変わるにつれ、その役割を終えた「宵田のいと」。現在は国道312号の下に眠っているが、宵田橋から割烹「とゞ兵」さんの家の下を望むと、玄武岩で構成された立派な石垣が残り、往時の様子を伝えている。
 これら城下町の建設には、町衆と呼ばれる名主が民衆を率い、町づくりを行ってきた。江戸時代には名字帯刀を許される商家もあり、時には私財を投げ打って宵田の開発に尽くしてきたという。
 こうした町衆の心意気は、現代も脈々と受け継がれている。「カバンストリート」は、商店街と豊岡の地場産業であるカバン産業の活性化を目的として、平成17年に始まった新たな挑戦。カバン専門店「カバンステーション」を中心に、洋服屋やクリーニング屋などのショーウインドウにカバンが飾られて、販売もしている。さらに、カバンの自動販売機があるのも面白い。
 通りには、キャリア50年以上のカバン職人・植村美千男さんの工房も出店。宵田商店街の依頼を受けて、「カバンストリート」設立と同時にオープンした。全国からカバンの修理が寄せられるカリスマ職人で、店内は地元やカバンを愛する人の社交場ともなっている。
 時代の変遷とともに、その姿を変えた宵田の町並み。しかし、町づくりにかける町の人々の気持ちは、昔も今も変わらないことを教えてくれる。

ショーウィンドウのカバン

商店街のカバンサテライト参加店では、ショーウィンドウにカバンを飾り、販売もしている。それぞれのお店の雰囲気に合ったカバンを置いて、カバンストリートを盛り上げている。銀行のウィンドウ(左)にも、カバンがディスプレイされているのが面白い。
(※販売はしていません)

レトロなお店

但馬でも歴史の古い商店街だけあって、レトロなお店が軒を連ねる。アーケードの上を見て歩くのも、おすすめ。

アーケードには、カバンストリートの文字

宵田のいと

江戸末期創業の割烹「とゞ兵」さんの家の下には、玄武岩で造られたかつての「宵田のいと」が残る。店内には、とゞ兵の由来となった「とど」のはく製が置かれている。

ARTPHERE(アートフィアー)

カバン専門店「ARTPHERE(アートフィアー)」。オーナー兼デザイナーの由利佳一郎さんは、なんと6代目。大人のこだわり旅をテーマに機能美を追求した斬新なカバンは、全国でも大反響を呼んでいる。

宵田橋からひまわり公園を望む

下を流れる戸牧川は、豊岡城下の内堀の役目を果たしていた。