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羽入を歩く<豊岡市竹野町羽入>(Vol.88/2013年10月発行)

中世には一大霊場として栄えた歴史ある村
風習や言い伝えが農村の暮らしを今に伝える
どこか懐かしい小さな村をのんびりと歩く

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羽入を歩く<豊岡市竹野町羽入>

 竹野川の下流、かつては城崎温泉へとつながる鋳物師戻峠への入り口であった豊岡市竹野町羽入。地名の由来は定かではないが、地元の言い伝えでは埴輪を作る集団がいたことからその名が付いたのではないかと言われている。
 近くの鬼神谷地区では須恵器の窯跡が見つかり、周辺には21もの古墳が確認されていることから、古くから技術を持った集団が住んでいたのであろうか。
 古代は今より海水面が約7メートル高く、辺りは入り江だったと考えられており、集落から突き出た山の先端は、岬を表す「山崎」と呼ばれている。元々は集落から少し山に入った「杉ノ谷」と言われる場所に集落があったそうで、海水面が下がるにつれて今の集落が形成されていった。
 家々の背後にある山は荊木山。中世には山腹にある「観音寺」を総本山として、山岳信仰の一大霊場として栄えた。かつては10を超える僧坊(修行僧が住む建物)があったそうで、山すそは建物跡が棚田状に広がり、修行僧が仏道に励んだ往時の面影を偲ぶことができる。
 但馬西国33番観音第32番札所でもある古刹で、南北朝時代のものとされる8基の「宝篋印塔」や、巨大な「釈迦涅槃図」といった貴重な文化財を所蔵している。
 「涅槃図」とはお釈迦様が入滅(亡くなること)される様子を描いたもので、寛保3年(1743)、地元の吉岡新左衛門によって寄贈された。繊細な描写はもちろんのこと、その大きさから見る者を圧倒する迫力がある。
 「この絵の素晴らしい所は田んぼ付きで寄進されたこと。修復の際の費用になるようにと、受け継ぐ人への心配りをしているんです。文化財を維持することは大変なことですが、先を見据えた行動には頭が下がります」とは、本堂を預かる両界院の石部道宣住職。村の宝を大切に守っていきたいと話す。
 山一帯には遊歩道が整備されており、場所によって日本海や羽入のまち並みを一望することができる。
 案内役の笠浪幸壽さんは、「子どもの頃、この辺りは格好の遊び場だった」と話す。毎年1月6日には「キツネ狩り」と言う悪霊払いの行事があり、子どもたちは頭に鉢巻きをして太鼓を叩き、『キツネ狩りーなー。キツネ狩りに出んもんは、尻にハースが出ると…』と囃しながら一帯を練り歩いたそうだ。
 他にも各家の長男が生まれた際には、蛇に見立てたガンダ綱を作って行列する「山の神」の神事もあり、かつての農村の風習を伝えるエピソードが数多く残っている。
 集落内を歩いても、村歌舞伎を演じた芝居堂や横穴を掘った天然の貯蔵庫があり、今では珍しくなった農村風景を垣間みられる羽入地区。どこか懐かしい気持ちにさせてくれるまち並みがあった。

舟止め石

舟の係留に使われた「舟止め石(右)」。蛇頭古墳の横穴式石室の天板。

荊木山 観音寺

本尊に十一面観世音菩薩を祀る「荊木山 観音寺」は701年に行基が開創したと伝わる真言宗の古刹。明治初年に再建された本堂は彫り物も立派な建物で、荘厳な雰囲気を醸し出している。脇には位の高い人物のものとされる「供養塔」が佇む。

公民館とかつての芝居堂

集落の中心にある公民館(左)とかつての芝居堂(右)。芝居堂では田植えの終わった「さなぼり」等の際に、村歌舞伎や芝居が披露された。梁には彫り物が残り、農村舞台の面影を感じることができる。

観音寺境内墓地内の「宝篋印塔」

集落から観音寺に上がる参道の途中には但馬六十六地蔵尊13番のお地蔵さんがある。境内墓地内の「宝篋印塔」は南北朝時代のものとされ、市の文化財になっている。

「山の神」の祠

「山の神」の祠は長円形の自然石で、田んぼの真ん中に祀られている。元は縄文時代の石棒だと言われている。

長寿の名水

両界院の駐車場には「長寿の名水」と呼ばれる水が湧き出ている。僧坊があった頃は、修行僧の生活水に使われていたとされる。