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「春よ来い」古の山陰道<新温泉町春来>(Vol.96/2015年10月発行)

山陰道として人々が行き交った「春来峠」
てっぺんに立つと、そこは息をのむ山並み
のどかな風景が広がる天空の里を往く

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「春よ来い」古の山陰道<新温泉町春来>

 『牛の背に 我も乗せずや 草刈女
春来三里は あふ人もなし』
 これは新温泉町生まれの歌人、前田純孝が残した短歌。明治36年、東京からの帰省途中に春来峠の険しさを詠んだ歌である。
 春来峠は香美町の村岡から湯村温泉、鳥取へと続く標高400メートルの峠で、古代より山陰道の難所として知られてきた。
 つづら折りの坂道が続き、峠を越すには歩くしか方法はなく、冬は3メートルも雪が積もることがあり、旅人泣かせの峠であった。
 そのてっぺんにあるのが春来地区。椿原を切り開いて村を作ったといわれ、かつては「椿村」と呼ばれていた。厳しい冬を耐えて、「春よ早く来い」と村人が待ちわびたことから、「椿」が「春来(木)」と転じて、地名になったとされる。
 「溜まり水と呼ばれる場所からは約7千年前の縄文土器に加え、弥生時代の石器も見つかっています。春来は古代から人が住んでいた、歴史の古い村なんですよ」とは、村の長老である田中董さん。
 律令時代に山陰道が整備されると、人々の往来する街道筋として栄えた。馬を休ませる「馬場」や、「番茶屋」「元庄屋」などの屋号は、現在も使われている。
 昭和初期に国道9号として峠道は大改修され、車が通る幹線道路として賑わった。昭和の戦後は7百人近い人が住んでおり、1日6千台もの交通量があったという。
 集落の北側を望むと、山々の峰が連なり、その見晴らしのよさに感激する。春来は間道の要といえる場所で、東西南北の集落に通じる間道が各尾根筋に走っている。一見すれば孤立しているように思えるが、他の集落からの出入りが多く、交流も盛んだった。
 「秋には雲海も見えるんですよ」とは、案内役の一人である田中彰副区長。家の窓からはまるで一幅の絵のような雄大な景色が広がり、朝起きて眺めるのが日課だという。
 稜線がひと際美しい標高562メートルの「城ヶ山」は、村の象徴的な存在。鎌倉末期から南北朝期の築城とされる砦跡で、「子授かりの聖天さん」と呼ばれる昇天像が祀られている。そのご利益は確かなもので、村は子宝に恵まれているそうだ。
 昭和50年に春来トンネルが開通し峠が県道に変わると、村は静かな山里となり、人口も減っていった。
 そんな村の危機を救おうと、平成11年にオープンしたのが、村おこしの拠点となる「そば処 春来てっぺん」。地元産のそばを原料に、つなぎを使わない十割そばは、遠方からのファンも多い。すだれのように吊るされる「かき餅作り」も、今や但馬の冬の風物詩として定着した。
 昔からの山陰道の面影を残す歴史の通り道、春来地区。そこには古代より人々が生きてきた証が感じられる。

そば処 春来てっぺん

地域活性化の取り組みとして平成11年にオープンした「そば処 春来てっぺん」。春来は清水が湧き出る場所であり、その味は抜群。地元の生産組合がそばを育て、自慢の十割そばを提供している。毎年11月上旬には新そばまつりを開催。

金龍山 萬福寺

金龍山 萬福寺は高野山真言宗の古刹で、創建は平安時代末期とされる。龍の絵画で知られるたつの市出身の画家・出口龍憲画伯の墨絵数十点を所蔵。春来に縁があり、毎年、春来小学校の卒業生には龍の絵を寄贈していた。

六体地蔵

寺前の大イチョウの下には、山陰道筋にあった六体地蔵を安置。

城ヶ山

尾根筋を通って行ける城ヶ山は砦跡で、本丸跡、曲輪、堀切、土塁などがある。山頂下の広場には地蔵尊と昇天像が祀られている。昇天像は子授け、縁結びの神様としてご利益があり、お礼参りに訪れる人も多い。中腹の音寺山(おっとじさん)は約80メートルもある大岩で、江戸中期に唄われた名山節の歌詞に登場する。

今から1338年前の飛鳥時代創建と伝わる古社

延喜式に記される由緒正しき神社で、江戸時代に「五社大明神」と称し、明治に入り「春来神社」と改められた。鳥居の脇には「みたらしの水」と呼ばれる清水が湧き出ている。

古来の山陰道とされる趣のある通り

春来峠は山陰道随一の難所であり、急坂の次にまた急坂に出くわして旅人が驚いた「二度びっくり」という地名が残る。