但馬開発の祖である「天日槍命」の伝説
名門「山名氏」の本拠であった此隅山城
但馬のルーツを探る古の地を散策する
豊岡市出石町宮内は、「一宮さん」の愛称で親しまれる「出石神社」で有名。集落の中心に鎮座し、但馬の国一宮として、地元の人にとってはかけがえのない存在だ。
「小学生の頃は、境内で虫取りなどをしてよく遊んだものです。昭和40年に神鍋高原で冬季国体が開催された時には、出石神社で古式にのっとり採火され、炬火(トーチ)リレーが行われたんですよ」とは、区長の宮下仁史さん。
祭神である「天日槍命」は、円山川河口の瀬戸・津居山の岩山を開いて濁流を海に流し、泥海であった但馬を肥沃な耕地にしたと伝わる。その伝説から但馬開発の祖として、建設業界からの崇敬も篤い。
毎年5月5日、少年会(中学生)によって行われる「幟まわし」は、天日槍命が瀬戸を切り開いて引き揚げる道中の姿を偲ぶ行事である。
天日槍命は『古事記』や『日本書紀』に新羅の王子として記述され、この地が古くから開けていたことが分かる。諸書の記述から奈良時代には有数の大社であった。
「かつての参道は南に面する神社正面の門を出て300メートルを直角に曲がり、西の方へ延びています。正面をさらさないのは、古い神社ではよくあることです」と、代々宮司を務める長尾家典さんは話す。
西方約700メートルに位置する鳥居地区は、かつて「二の鳥居」があったとされる場所。その言い伝え通り、昭和8年の出石川改修工事に伴う、旧鳥居橋の橋脚工事中に柱の一部が見つかった。
ここから国道482号を日高方面に進んだ狭間坂(豊岡市出石町片間)に「一の鳥居」、そして、但馬国府へと続いていたとされる。平安時代には都から国司に着任すると、これらの鳥居をくぐって役人たちが参向したそうだ。
神社の後方には、代々但馬守護職を務め、室町幕府で権勢を奮った武家の名門・山名氏が本拠地とした此隅山城がそびえる。文中年間(1372〜75)の築城とされ、15世紀末に豊岡市の九日市から此隅山に守護所を移した。
その後、羽柴秀吉による但馬攻めで落城したが、今も「御屋敷」「宗鏡寺」などの地名が残り、中世の城下町形成の初期段階を示す重要な遺跡が発掘されている。
ここから入佐川を上流へ上っていくと、祈祷寺として山名氏の信仰が篤かった「総持寺」がある。
奈良時代に行基が開いたとされる古刹。平安末期には七院十坊の塔頭を構える大寺であった。
本尊は十一面千手観音立像で、勧進奉加帳からは当主・山名祐豊やその家臣を始め、庶民といった幅広い階層からも寄進を募って造立されたことが記されている。
但馬のルーツを知る上で重要な場所である宮内区。荘厳な出石神社の社叢からは、古代から続く歴史の重みを感じることができる。
標高143.7メートル、城域は東西1.2キロ、南北750メートルと広く、代々但馬守護職を務めてきた名門・山名氏の本拠にふさわしい但馬最大規模の城郭。織田信長の命を受けた羽柴秀吉の手勢により落城し、その後、より急峻な有子山に城が築かれた。麓からは城下町の姿を偲ぶ武具や土器が出土している。
高野山真言宗「応峯山 総持寺」は山名氏ゆかりの寺院。観音堂には本尊の十一面千手観音が祀られている。応仁の乱の西軍総帥として有名な持豊(宗全)が合戦の際に常に所持していた聖観音像が胎内仏として納められている。
古来より人々の喜びの席で使われてきた徳利と杯が、簡単に捨てられることを残念に思った住職により建立された。
但馬開発の祖・天日槍命と、命が新羅より運んだ八種の神宝を出石八前大神としてお祀りする「出石神社」。立春の日に神馬藻(なのりそ)を奉納する「立春祭」など特殊神事が残る。11月23日の「新嘗祭」では前日の夜に氏子が餅をつき、円盤状に伸ばした「御年花(おはなびら)」を作って、当日の正午に参拝者に撒き与える。
本殿の東側には約300坪の「禁足地」と言われる聖域がある。天日槍命の墓所と言い伝えられ、古代より立ち入りが禁止されている。一木一草も刈り取ってはならず、踏み入れば、祟りがあると言われている霊験あらたかな場所である。
端午の節句に行われる「幟まわし」は宮内区の行事として少年会(中学生)が囃子を務めている。色鮮やかな幟は氏子たちが受け継ぎ、大事に守られている。
昭和8年、旧鳥居橋の橋脚工事の際に見つかった「ニの鳥居」とされる柱の一部。大量の古銭とともに出土。鳥居地区の名前の由来が実証された発見であった。