漁業の町として、一大発展した香住の町
海へと続く路地には漁師町の風情が残る
往時の様子をたどりながら海辺を歩く…
「香住」と言えば、言わずと知れた漁師町。冬場の松葉ガニを始め、イカ、カレイ、ハタハタ、ニギスなど、1年中多彩な魚介類が水揚げされる。近畿では唯一の水揚げ港である紅ズワイガニは、「香住ガニ」と銘打ってブランド化され、新たな地場産品として人気が高まっている。
縄文前期までは、内陸の谷まで海が入り込んでいた香住。縄文中期以降に平野が形成されて人の営みが始まったことが、町内の月岡下遺跡の発掘調査により分かった。
古地図では、現在の香住谷川は矢田川の本流だったとされ、天慶3年(940)に、時の領主・篠部氏が今の西側に流れを付け替え、その跡地に香住谷川と耕地が作られたとされる。海辺には遠浅の砂浜が広がり、「千本松原」と呼ばれる松林が広がっていた。
「今も町内には内陸部まで海だったと示す場所があります。河口の先端であった「神岬」と言われる場所で、かつて「矢防ぎの松」と言われた名残りの大松がありました」とは、地元・金刀比羅神社の宮司を務める田渕義親さん。
古地図に記された「神岬」には、有間皇子の弟とされる表米親王が海賊退治の折、鮑が沈みかけた船の穴をふさいで助けたという伝承があり、ひと息つくために飲んだとされる「磯の生水」の名が残っている。
昭和4年(1929)に、漁協の組合長を務めた長父子の尽力により、大型漁船を係留するための港湾整備が行われると、香住は近代的な港として一気に漁業が花開いた。特に最盛期であった昭和38年から昭和53年にかけては、景気のよさを伝える話しが残っている。
当時、船員の給料がどの職業よりも高く、一晩で数千万円を稼ぐ船もいたとか。漁師になれば、2、3年で家を建てられたと言う。
魚も豊富に獲れたそうで、「香住駅へとサバを運ぶリヤカーの列ができた」や、「貨物列車が雪で運休になると、駅の上屋にカニが山積みにされて無料配布された」など、豪快なエピソードには事欠かない。
煌々と光るイカ釣り船の漁火を見て、出張中の会社員がタクシー運転手にあの繁華街まで行ってくれと頼んだという笑い話もある。
「カニや魚をお供え物にいただくこともあり、幼い頃から海の幸には恵まれていましたね。水産物の加工屋さんも増えて、漁業で町は賑わいでいました」と、田渕さん。
時代の変化により漁業を取り巻く環境は厳しいが、今でも海岸沿いには加工屋さんが軒を連ね、魚を知り尽くした海の職人たちが美味しい香住の魚を届けている。
路地に入ると、漁師町特有の焼き板塀の家々が残る香住の町。海岸沿いは「しおかぜ香苑」として整備され、遊歩道は潮風が心地よい。夏は水平線に沈む夕日のシルエットがおすすめ。海の香りが住む町をのんびり散策してほしい。
香住漁港は初代漁業組合長の長熈(ちょうひろし)と、その遺志を継いだ3代目組合長で息子の耕作の尽力により、昭和4年、大型船が係留できる近代的な港へと整備された。港は高度経済成長期とともに隆盛を極め、漁業の町として発展を遂げた。
金刀比羅神社は「こんぴらさん」として親しまれ、海の守護神・大漁祈願の神様として、漁業関係者の信仰が篤い。かつては香住谷(糸谷)に鎮座し、明治4年に現在地に遷座した。
金刀比羅神社に残されている「漁師さんの三種の神器」。左から「具箱(道具箱)」「チゲ(弁当箱)」「みず樽(水筒・飲料水)」。
香住自治区の氏神である「香住神社」。氏子は380戸を数え、毎月1回各組が持ち回りで清掃奉仕をしている。年6回、例大祭があり、特に秋祭りは大きな御神輿2体が町中を練り歩く。香住文化会館駐車場では町指定無形民俗文化財の「三番叟」が奉納される。参道を上った月岡公園は桜の名所として知られる。
中央公民館の玄関横に展示されている「燈籠の松」の切り株。樹齢は約550年とされ、平成9年まで永く小学校のシンボルであった。「千本松原」の名残りの松と言われ、盆や法事の際、枝に燈籠が吊り下げられたことからその名が付いた。