山陰の名湯として、文人墨客や湯治客に
愛されてきた城崎温泉のまち並み…。
路地に入り込めば、違った景色が見える。
伝説によれば、約1400年前にコウノトリが足の傷を癒したことから発見されたという城崎温泉。
江戸時代には温泉医学の権威・香川修徳が現在の 「一の湯」を 天下一の湯 と称し、多くの湯治客で賑わった。東に円山川、三方を山で囲まれた谷間にある温泉街の中心には大谿川が流れ、柳並木や木造三階建ての旅館と相まって、情緒あるまち並みを創り出している。
駅通りから大谿川を目指して歩くと現れてくるのが、住民の外湯として親しまれてきた地蔵湯。泉源から地蔵尊が出てきたことからその名が付いた。
かつてこの辺りには大きな「いと(船着場)」があり、温泉街への玄関口となっていた。道路が整備される以前、山が川に迫り、平地が少ないこの地へは船が交通の主役。八鹿や日高の渡し場から25〜30人乗りの三十石船が往来し、湯治客を運んできた。湯島や桃島など島が付く地名が多いのはその名残りだ。
地蔵湯から北側の路地を入ると、そこは「新地」と呼ばれ、かつて花街だった場所。その名の通り、大正14年の北但大震災の後に生まれ、元々は田んぼだった所に飲み屋やお茶屋が集められた。現在は時代の流れとともにその役割を終え、射的・スマートボールの遊技場だった建物が残されている。
「表通りの入り口にはアーケードがあり、昭和30年代には30〜40台ものバスが来て、木屋町とともに歓楽街として賑わった場所です。私もよく出前を届けに行ったものです」とは、蕎麦屋を営むかたわら、城崎案内人としてガイドを務める四角澄朗さん。
「江戸時代、一の湯から西は湯治客が集う旅館街、東の地域は商家が軒を連ねる町人の町でした。昔は間口の大きさで税金が決められていたので、「うなぎの寝床」と呼ばれる細長い家が多いのが特徴ですね」と、四角さんは話す。
新地から北へ足を向けると、桃島地区へと抜ける坂道が見えてくる。かつては山の峠道を越えていたそうだが、今は切通しとなり、車が行き来できるようになっている。
ちなみに裏山には、すり鉢状のスキー場があった。浴衣に丹前を羽織った温泉客がスキーを楽しんでいたという、浴衣の町・城崎温泉らしいエピソードも残っている。
「ここを越えると、景色が一変します。温泉街から少し歩くだけで、のどかな農村風景があることを知って欲しかった」と、四角さん。
そこは賑やかな温泉街とは一線を画す、時間が止まったような空間が広がる。間口が広い農家が軒を連ね、今では珍しくなった蔵を持つ家が非常に多い。外湯歩きとはまた違った趣があり、城崎の二面性を感じられる場所だ。
路地に入り込むと、色々な風景と出会える城崎温泉。表通りから寄り道するのもおすすめだ。
天文年間(1532〜1555年)に開基されたと伝わる、法華宗真門流の寺院「養法山 本住寺」。旧豊岡藩の14代目当主として生まれた、俳人・京極杞陽が同寺で詠んだ歌の句碑がある。しだれ桜、沙羅、萩、キリシマなど、花の寺としても知られ、四季折々の花々と出会える。
子育て・安産の神「鬼子母神(左)」は柳湯の守護神であり、温泉に入った後にお参りすれば、子授けのご利益があると言われる。
柳湯の裏手にある「桃源水」は、慶安3年(1650)に発見されたと伝わる井戸。地下に温泉がある城崎では真水の確保が大変だった。裏山から湧き出ているために温泉水と混じらず、長く生活用水として使われていた。反対側の桃島には「桃りょう水」が湧き出ている。
橋と木造の旅館が趣を見せる。城崎案内人の四角さん、お気に入りの風景。
農業用の貯水池として活用されていた桃島池。絶滅危惧種に指定されている、体長約3cmの小さなヒヌマイトトンボが生息する。汽水域の湿地などにいて、5月下旬から9月下旬にかけて見られる。
のどかな農村風景と湿地が広がり、周辺はトンボの宝庫として有名。
木造の格子窓や外壁、スマートボールの看板が往時の様子を伝える。周辺は城崎の代表的な夜遊びスタイルである「スナック」が点在する。