但馬養蚕業の礎を築いた上垣守国の軌跡
蚕と共に生きた集落に息づく歴史と文化
中3階建て養蚕農家が残る町並みを歩く
古くから養蚕が盛んだった養父市。明治の近代化により機械製糸業が隆盛を極めると、優良な繭の生産地であった養父市にはグンゼ株式会社の大規模な製糸工場が建てられ、西日本の養蚕の中心地域となった。大正・昭和の経済恐慌の時には、養蚕製糸業は農家を助けた大切な副業であり、日本の重要な輸出産業であった。
養父市や北近畿に発展をもたらした養蚕製糸業。その礎を築いたのが、但馬養蚕業の先駆者である上垣守国だ。守国は江戸中期の養父市大屋町蔵垣に生まれ、貧しい農家の暮らしを豊かにしたいと、18歳の時、先進地であった陸奥国伊達郡福島に渡った。蚕飼いの高い技術や新しい蚕種(蚕の卵)を但馬・丹後に広め、質のよい繭づくりの普及に生涯を尽くした。
中でも、享和3年(1803)に著した『養蚕秘録』は養蚕の技術書として愛読され、シーボルトもオランダへ持ち帰った技術書。その後、フランス語訳され、ヨーロッパの技術改良にも貢献し、日本の技術輸出第1号ともいわれている。
まさに蔵垣地区は養蚕業の聖地とも呼べる場所。集落の中央に位置する蔵垣かいこの里公園には、守国の記念館をはじめ、かいこの里交流施設、かいこ飼育所など、守国や養蚕にまつわる場所が点在している。
「守国さんは世界遺産となった群馬県の富岡製糸場の地域でもよく知られています。守国の技術が普及したフランスの製糸技術が富岡に持ち込まれたこともあり、視察に行った際は私たちにお礼を言われるぐらい尊敬されているんですよ」とは、かいこの里の会の代表を務める松原一朗さん。
地元では毎年6月初旬、「かいこウィーク」と題して、本物の蚕を飼育して、成長過程を見ることができるイベントを開催。期間中は、真綿作りや糸ひきなどの体験もでき、養蚕業の文化や伝統を伝える活動を行っている。
昭和40年代頃まで行われていた養蚕。最盛期には年4〜5回の養蚕が行われていたそうで、集落を歩くと、「抜気」と言われる換気口の越屋根を備えた中3階建ての養蚕住宅が今も残っている。
「蚕は おかいこさん と呼ばれ、家族同様に暮らしました。1頭、2頭と数えられ、農宝であった牛と同じ扱いでした」と、松原さんは話す。 温度管理が重要である蚕の飼育に合わせて、2階・3階は外気から蚕を守るため、柱や梁の隙間を埋める大壁で作られている。人と蚕が一体となって共生した暮らしの面影がここには残っている。
上垣守国が遺した『養蚕秘録』。この本には技術だけでなく、蚕を飼う心持ちも記されているという。都会からの移住者も多い蔵垣地区。蚕を思いやった文化が今もしっかりと根付いている。
都市との交流拠点である「かいこの里 交流施設」では、桑の葉茶や桑の実ジャムなどの特産品や、桑の葉うどんを味わうことができる。
※土日のみ営業(10〜16時)
氏神である上森神社からは、集落を一望できる。かつては川向に天神様、下に絹巻神社、上に金比羅様と、村の四隅に神様が祀られていた。現在は金比羅様を残して、三社が上森神社に合祀されている。
上垣守国養蚕記念館は、平成7年に守国の偉業を記念して開館した木造瓦葺、3階建の養蚕農家住宅。養父市で多く作られている養蚕農家住宅を間近で体感できる。守国の貴重な資料や養蚕で使っていた道具など、かつての養蚕の暮らしや文化を知ることができる。
蚕室となった3階では、蚕のベッドとなる「まぶし」と呼ばれる器具に、蚕が繭を作った。
蚕によって支えられた歴史や文化を語り継ぐため、「かいこの里の会」の手によって一から育てられた桑園。蚕の飼育や特産品として、地域の活性化を担っている。
7世紀中頃に作られた。他にも遺跡が発掘され、古くから人が住んでいたことが分かる。
副産物である蚕のサナギは鯉の餌となったため、養父市の養蚕住宅では多く見られる。
交流施設では、蚕の繭玉で作った繭人形や藤の花が飾られている。3月には繭の雛人形展を開催。