山陰道の街道筋として発展した高柳地区
通りには養蚕農家やお地蔵さんが残る
八木川沿いの静かな田園風景を歩く
但馬の主要幹線道路、国道9号沿いに集落が並ぶ養父市八鹿町高柳地区。旧山陰道が伸びる街道筋として、昔から人や車の往来が絶えないが、平成24年に北近畿豊岡自動車道「八鹿氷ノ山IC」ができたことにより、交通の要所としてさらなる賑わいを見せている。
高柳の地名は、当地に残る『おりゅう柳』の伝説に由来する。昭和30年に旧八鹿町が発足するまで、高柳村として役場や小学校、駐在所が設置され、商店が軒を連ねる中心地として発展した。
かつて村の経済を大きく支えたのは、日本の主要産業であった「養蚕」。最盛期には、山々の谷間はその全てが桑畑であった。現在も、越屋根が付いた3階建ての立派な養蚕農家がわずかながら残っている。
「高柳は先進的な地区だったのですよ。早くから農事改良や近代養蚕飼育を取り入れ、比較的豊かな村だった」と話すのは、案内役の濱達人さん。
それは明治22年正月、村の青年5名が養父神社へ参拝に訪れた際に目にした憲法や国会開設の理由を記した本に始まる。文明開化の波を目のあたりにした若者たちは、このままでは時代に取り残されると感じ、「進智共会」という夜学会を立ち上げる。
1日の農作業を終えてから夜な夜な勉学に励み、農業の書籍を読みふけっては農事改良を率先して行い、養蚕の先進地域であった群馬から教師を招くなどして、勉学に励んだ。地区にはかつて会合が行われていた建物が残り、往時の様子を偲ぶことができる。
建物の裏手は旧山陰道であったとされる場所。旧家の立派な石垣が残り、この地が繁栄していたことを物語る遺構だ。
さらに、西へ進むと、但馬六十六地蔵巡りの第31番札所のお地蔵さんや観音堂が迎えてくれる。高柳観音堂の地にはかつて高照寺があった場所とされ、北側へ伸びる道は寺へと続く参道である。
ここから国道9号を渡って石段を上ると、現在の「高照寺」にたどり着く。花の寺として知られ、住職の花説法は人気があり、但馬内外から多くの参拝者が訪れる。特に春は、白、ピンク、錦、赤、紫、黄色の木蓮が順に咲き、鮮やかな癒しの風景を楽しませてくれる。
「共に智恵を進める」として高柳の発展に尽くした若者たち。自治協議会では地元アンケートを基にした「たかやなぎお宝マップ」を作成した。地域活性化への取り組みは、今もしっかりと根付いている。
贅沢普請で築かれた立派なもので、当時の旅人も驚いたであろう。
養老4年(720)、行基菩薩の開基と伝わる真言宗の古刹「高照寺」。御本尊は大日如来で、花の寺として知られている。春は木蓮が有名で、他にもスイセンや土佐ミズキ、花桃などが見頃。住職の花説法(10名以上・要予約)も人気。また、治したいところを手でなでるとご利益があるという「なで弘法」がある。
元は旅館として建てられたが、後に若者たちの夜学会「進智共会」の会合の場となった。高柳に住んだ画家・小林礫川も、若者たちに漢学を教え、その様子を絵に残している。
高柳下にある地蔵堂(左)は、通称「出張地蔵」と呼ばれる。お地蔵さんを抱いて寝ると子を授かるといわれ、昔は貸し出されていたそうだ。高柳上には但馬六十六地蔵第31番札所となるお地蔵様が祀られている。
江戸後期に生まれた日本画家・小林礫川(れきせん)は、72歳で没するまで高柳村に住み、数多くの作品を残した。
うだつが上がった立派な造りを見せる。周辺には桑畑が広がり、繭の生産が盛んに行われていた。