鉱山町の景観を残す「銀山まち回廊」
赤みがかった生野瓦や黒いカラミ石など、
生野特有の風情あるまち並みを歩く
開坑は大同2年(807)と伝わり、日本有数の鉱山として栄えた生野銀山。本格的な採鉱は室町年間に始まったとされ、但馬守護の山名祐豊が、但馬と播磨の国境にある現在の口銀谷に生野城を築いたことでまちが発展していった。
「かつては三層の天守閣を備えた平城があったと伝えられています。戦国期には信長、秀吉、家康と支配者が移って江戸幕府の直轄地となり、生野城が奉行所として転用され、その後、代官所に。口銀谷は幕府の役人が住んでいた地区になりますね」とは、ボランティアガイドの世話人を務める中井武四さん。
明治に入って生野鉱山が日本初の官営鉱山となり、その後、三菱に払い下げられると、まちはさらに発展した。東京から赴任してくる上級の職員が住むようになり、家電製品をはじめ、但馬でも珍しい物が何でも手に入ったという。
「口銀谷は田も畑もなく、サラリーマン所帯が軒を連ねた但馬でも特殊なまち」と、中井さんは話す。
中井さんの案内で代官所の内堀跡が残る観光駐車場をスタート。
隣りにそびえ立つ巨大な石碑は、幕末に代官所を舞台に繰り広げられた「生野義挙碑」。明治維新の魁となった倒幕運動を、後世に伝えるために建立されたものだ。
ここから路地を東に抜けて、御領所通りを北へ進むと、現在も8カ寺が連なる寺町通りへと入る。
「砂のごとく銀が採れた」といわれ、全国から人が集まったことを示すように様々な宗派の寺院が建立されている。東西寺には東照宮があり、徳川歴代将軍の位牌が祀られ、家康公の木造までが安置されているのは珍しいそうだ。
寺町通りを抜けると、現在は一般公開されている「旧生野鉱山職員宿舎」が見えてくる。中庭の広場は名優、志村喬の生家があった場所で、宿舎の1棟は記念館として貴重な資料が展示されている。
国道を渡って市川沿いの通りを歩くと、銀山を統括した大山師や地役人の邸宅、幕府の役人が泊まった郷宿「井筒屋」など、格子、土壁、漆喰と意匠を凝らした見事な和風建築が迎えてくれる。
また、明治期のフランス人技師の異人館を模して建てられた「旧生野警察署」、アーチ型の石積みが美しい「トロッコ道」などモダンな建造物も所々に見ることができ、それらが違和感なく溶け込んでいるのもこのまちの特徴だ。
「生野は各地から人が集まってできたので、外から来た人を受け入れる文化が残っています。かつてはほとんどの住民が鉱山に従事していましたので顔見知りばかり。団結力があるのは生野人の気質ですね」と、中井さんは教えてくれた。
全国から集まった山男、異国の文化が交差する口銀谷。ボーダーレスな文化がこのまちの景観を生み出したといえるだろう。
大正9年(1920)に生野鉱山の坑道から旧駅まで市川沿いに敷設されたトロッコ道跡。アメリカ製の電気機関車が鉱石輸送のために走った。姫宮橋からは美しいアーチ型の石積みを見ることができる。
日本人大工が洋館を真似て造った擬洋風建築の旧生野警察署。モダンな景観を代表する建造物。
江戸時代、幕府の役人が宿泊した郷宿の1軒であり、代々山師を務めた井筒屋(旧吉川邸)。現在はまちづくりの拠点施設、観光客の憩いの場として一般開放され、銀細工や紅茶クッキーなどの特産品も販売している。
明治元年に日本初の官営鉱山となった生野鉱山。官吏の宿舎として建てられた職員宿舎4棟が現存。製錬の際にできた不純物を固めたカラミ石が混ぜられている土塀の様子が見学できる。当時の生活様式が垣間見られる貴重な建物。
通りには格子、土壁、漆喰と趣きのある山師や地役人などの邸宅跡が残る。まるでタイムトリップしたかのような懐かしいまち並みに出会うことができる。
寺町をはじめ、町の至る所で塀などに使われているカラミ石。製錬の際に出た不純物を固めた物で、100年前のリサイクル品とも言える。寒冷地用に高温で焼いた赤褐色の「生野瓦」も生野の町を彩る景観物のひとつ。