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山陰道・村岡最初の城下町を歩く<香美町村岡区福岡>(Vol.114/2021年3月発行)

八幡山を中心に栄えた山名村岡藩の城下町
三羽の古兎伝説や古墳群が残る
旅人達で賑わった山陰の宿場町を歩く

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山陰道・村岡最初の城下町を歩く<香美町村岡区福岡>

 兎の霊が住民たちを困らせていたという古兎伝説が残る香美町村岡区福岡。その伝説が由来となり、この地域一帯は「兎塚」と呼ばれている。国道9号沿いにある集落で、近世には山名村岡藩の城下町として、そして山陰道の宿場町として栄えた。
 集落の中心にこんもりと佇む小高い山は八幡山といい、1601年には山名氏が村岡藩の最初の陣屋を築く。福岡の地名はこの時に名付けられた。町は城下町として整備され、1642年に村岡へ移転するまで、山陰道の要衝として村岡の中心であったという。
 道の駅ハチ北を過ぎ、国道からつながる細い通路で集落へ降りると、車1台が通れるほどの道に出る。この細い道が旧山陰道だ。そこを進んでいくと六地蔵が出迎えてくれ、正面には八幡神社の鳥居、そして集落の町並みが広がる。養父市関宮からつづら折りの険しい八井谷峠を越え、最初にたどり着くのがここ福岡。宿場町の入り口らしい雰囲気は旅人を安心させたことだろう。
 集落のシンボルとも言える八幡神社は1619年に陣屋の守護神として和池から遷座した。2019年に遷座四百年を迎えた歴史ある神社だ。約160段の急な階段を登りきると、広々とした境内にストーンヘンジを思わせる石舞台や波や丸い形をした石彫作品が目に飛び込んできた。
 「ここは1992年に行われた国際彫刻シンポジウムによって作られた石彫公園です。世界6カ国の彫刻家と住民みんなで作りあげました」とは、案内役の田路一成さん。石彫は近くでとれる笠波石が使われている。鳥居と社殿と石彫、樹齢数百年の杉木立が織りなす独特の雰囲気。八幡山にこのようなミステリアスな空間が広がっているとは驚きだった。
 境内を進むと社殿の南側にこんもりとした小さな山が3つある。これは古墳時代に作られた古墳群とのこと。県の史跡にも指定されており、鏡や勾玉、土器などが出土している。神社の信仰の対象となっている4号墳は紙垂を垂らした結界が張られ、厳かな空気が漂っていた。
 次は神社を離れ、旧街道筋へ。集落を南北に走る街道を「立町」、東西に走る道を「横町」と呼ぶ。
 「立町には酒屋、魚屋、電気屋、豆腐屋、塩屋、本屋、時計屋、自転車屋、薬屋と商店が軒を連ねていて、ここに来れば何でもそろいましたね。横町には数軒の旅籠があり、役割が分かれていました」と田路さん。鉤の手と呼ばれるクランク状に曲がった道は城下町の名残りだそう。レトロな看板やうだつの上がった家屋など、町歩き好きにはたまらないポイントも多い。
 古代から近代、そして現代の歴史がいたるところで顔をのぞかせる福岡。人々を出迎えてくれる温かな雰囲気は今もなお残っていた

下中山の兎の塚

昔々、大森の裏(現在の村岡区森脇あたり)の池に大蛇が住んでいて人や牛や馬を襲うので住民は大変恐れていた。そこで退治にやってきたのは弓の名手・日下部政高(くさかべまさたか)。退治しようとすると三羽の古兎が妨害してきたが、得意の弓で兎と大蛇を無事に退治することができた。ところが、この時の兎が化けて暴れ回り、人々を困らせるようになってしまう。兎の霊を鎮めるため下中山、川端、八井谷に塚を建てて祀った。この頃から、この地域一帯を兎塚と呼ぶようになったと言われている。

旧家を見ることができる通り

旧街道筋には丹波屋、奈良屋、中丸屋など屋号の残る旧家を見ることができる。うだつの上がった家も。

小児医院跡の土壁

老朽化により取り壊されるまでは趣のある家屋が建っていたという。

石彫公園

石彫公園では一昨年までは毎年8月に八幡山芸術祭(音楽祭)が開催されていた。

兵庫県の指定母樹である樹齢数百年の兎塚スギが林立する境内

八幡山古墳群

かつては石室を覗くことができた。