タイムスリップしたかのようなレトロな町並み。
華やかだった旧街道の面影をたずねて
山陰街道分岐点の町を歩く。
朝来市山東町矢名瀬町。国道9号と427号が交差し、絶え間なく車が行き交う流れの向こうに、旧国道沿いの静かな町並みが広がる。
但馬から遠阪峠を越えて丹波を通り京都・奈良へ続く「山陰表街道」と、矢名瀬町を起点に夜久野峠を越えて京都亀岡へと向かう「山陰裏街道」、西国巡礼者が姫路の書写山圓教寺から天橋立成相寺を目指して歩いた「なりあい道」の分岐点となっていた矢名瀬町。江戸時代には参勤交代に向かう大名行列が休息本陣を構えた交通の要所であった。
国道427号から柴川を越え、一本中の道へ入り、北へと進む。
「この通りは旧国道9号になります。昭和30年代に現在の位置へ改修されるまで、ここが主要道路でした。今となっては狭い道ですが、バスも行き来するにぎやかな商店街でした」とは、梁瀬地域自治協議会の岩村年隆会長。土壁や白壁、細やかな格子、うだつ、ハイカラな看板など昔ながらの佇まいが出迎えてくれ、タイムスリップしたかのような錯覚を覚える。
旧道沿いを歩いていると、大正・昭和の時代を彷彿とさせるレトロなまち並みが見えてきた。昭和の映画ポスターや電化製品、おもちゃなどが飾られたワクワクする一角だ。
地域の井戸端会議場、こども見守りステーションとなっている「矢名瀬陣屋」の八木さんに、昔の写真を見せてもらった。
「昔は“山東の銀座”と呼ばれていて、この通りに来ればすべてが揃っていました」と八木さん。白黒の写真には人や物があふれたにぎやかな様子が写っている。米屋、畳屋、呉服屋、医院、旅館、パチンコ屋や映画館もあり、商店の数は山側だけでも70店舗以上。矢名瀬市と呼ばれる大きな市も定期的に開催されていた。大正6年(1917)にできた郡是梁瀬工場の女工さんたちで華やかににぎわい、パーマ屋もたくさんあったという。
磯部川に架かる朝日橋を渡ると、江戸時代に創業された造り酒屋・田治米酒造がどっしりと佇んでいる。
「今は酒蔵しか残っていませんが、昔はこの磯部川を挟んで、川原町側で醤油が、中町側で酒が造られていました。それぞれの麹菌が混ざらないように川で隔てていたそうですよ」と岩村さん。田治米酒造の壁の前、三叉路の角には梁瀬村道路元標がひっそりと立っていた。これは山陰表街道と山陰裏街道との分岐点であることを示す標識で、今でも人々の往来を静かに見守っている。
三叉路を北へと進むと、こちらも江戸時代創業の此の友酒造が見えてくる。軒下には酒蔵らしい杉玉が吊り下がっていた。2つの大きな造り酒屋は今もなお現役で、人々に愛される地酒を造り続けている。
2つの峠の出入り口だった矢名瀬は宿場町としても栄えていた。その昔、夜久野峠や遠阪峠には追い剥ぎ(山賊)がいたという。旅人たちは追い剥ぎが出ると噂される峠を前に、矢名瀬で一夜を明かしていたそうだ。冗談や皮肉に「京へも大阪へも通したらんぞ」という捨て台詞もあったんだとか。
宿場町として、商店街として、時代とともに多くの人々が行き交った街道の分岐点、矢名瀬町。懐かしい町並みを訪ねて、時間旅行へ出かけてみてはいかがだろうか。
旅籠屋らしい格子の家屋や、酒屋などが建ち並ぶ旧街道の町並み。趣のあるレトロな看板が多く、通り全体が美術館のようでおもしろい。
矢名瀬陣屋、昭和こども館、ふじおミニ鉄道資料館などがある。
うだつとは防火壁のことで、これを造るには相当な費用がかかったため、裕福さの象徴とされている。「うだつが上がらない」の語源となる。
ふじおミニ鉄道資料館は、故藤尾忠雄さんが収集した切符類をはじめ、鉄道に関する資料やグッズが展示されている。多くの鉄道マニアが訪れるスポット。開館日は不定期のため事前に連絡が必要。
「ここが街道の分岐点です。こちら側が京都亀岡へとつながる山陰裏街道となりあい道になります」と岩村さんは指を差す。