個性豊かな滝と鉱山跡に囲まれた水の古里を歩く。
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矢田川を遡るように県道4号線を西に走ると「ヤマメの里 山田渓谷」という看板が。それに従い渓流を遡るように登ると、たどりつくのが香美町村岡区山田だ。
「水の美しさを生かし、かつては毎年ヤマメなどを放流していました。夏休みになると上流にある河川敷で“山田渓流祭り”が開かれ、アマゴやニジマスの掴み取りなんかもありましたね。京阪神などからも多くの家族連れが来て、大変賑わったんですよ」そう案内してくれたのは区長の西裕誠さん。川に沿うように立ち並ぶ家々は、立派なものが多い。古くは農業、養蚕、山仕事が主な産業で、冬になると和歌山周辺へ酒造りの出稼ぎに行っていたそうだ。
「冬は雪深く、建物の2階まで雪が積もることも珍しくありませんでしたからね。昔は春まで道は空かず、車も通れませんでしたから、冬場は出稼ぎに行くしかなかったです。2階の窓から外に出て、雪を掘って玄関を開けるなんて当たり前だったんですよ」と西さんは笑う。
「昔は住民たちで冠婚葬祭などを全て執り行っていて、葬式にお坊さんが来てくれるようになったのは最近だなんて聞いたこともありました」。
集落へ入る前にあるのは、10月9日に秋祭りが行われる熊谷神社。
境内にある丸い岩は「鮭大明神」に関するものだという。矢田川下流にある香美町香住区小原で鮭に乗った伊香色雄命という神様が降り、乗っていた鮭がたどり着いたのがこの山田とされている。お宮自体は向かいの山中にあるが、道が険しく容易に参拝できないため、ここに石が祀られたのだとか。
歩みを進めると、山田体育館が見えてきた。射添中学校山田分校と山田小学校の跡地で、横に併設されていたのは幼稚園だ。秋祭りになると餅まきが行われるなど、住民の集う場所として今も活用されている。
また、山田グラウンドは、過酷な山間を走ることでも知られる「村岡ダブルフルウルトラランニング」のスタート地点に選ばれることもあった。
「私が学生の頃は1学年に15名ほどの学生がおりました。隣の集落の小城や境から歩いてこの学校に通学する同級生も何名かいましたね」。
かつては周辺地域の中心地だった山田だが、今は家屋の半数近くが空き家となっている。そもそも、なぜ人々はこの場所で暮らし始めたのか。その疑問には、同じく山田に住む西坂秀美さんが教えてくれた。
「江戸時代、周りの山は鉱山だったんです。かつては“山田千軒”とうたわれ、実際に家屋が千軒を超えたこともあったそうですよ」。
なんでも、当時の領主であった山名家の政策により鉱山発掘が盛んで、金・銀・銅・鉄が豊富に採掘されたそうだ。特に鉄は大量に採れ「山田鉄」と呼ばれていた。
しかし宝暦3年(1753)頃、私領地の鉱山は幕府に支配されるとの噂があったため、全ての鉱山を埋め隠してしまった。今でも山肌に坑道跡である間歩を見ることができる。
採掘にまつわる面白い話は他にもある。かつて、山田の観音堂がある場所には温泉が湧いており、周辺に「湯弥神社」と呼ばれる神社があったそうだ。
しかし、新温泉町で湯村温泉が発掘されると、山田の温泉は出なくなったと言い伝えられている。西坂さんは「詳しくはわからないが、泉脈が一緒だったのかも」と苦笑した。
時代に合わせ、さまざまな表情を見せる山田。知られざる歴史の深さこそ、今もこの土地で暮らしている人々の誇りなのだと実感した。
どこを歩いていても川の音が聞こえる。
水しぶきがきらめいて、なんとも涼やかだ。
大雪のため檜が倒れ、鳥居の一部が壊れたため差し替えた跡が見える。
鳥居には「文化十年」と彫ってあり、歴史があるものだということがわかる。
熊谷神社内にある鮭の神様の拝所。
祠があるとされる場所が遠いため、ここにあるのではないかと思われる。
一度建て替えられた地域の建物。
内部から見上げると、古い木材が一部再利用されているのが分かる。
かつて但馬牛を飼っていた厩を物置に改造したという農家。
家の中から牛に餌をあげていたそうだ。
土蔵を備えた立派な家屋が立ち並ぶ。
客をもてなす食器を収納しているのではと西さん。
抜気(ばっき)とは越屋根のこと。
養蚕を営んでいたのだろう。
製鉄した際に出る鉄滓(かなくそ)も、付近には多く残っている。
山田の先にある小城には「小城四十八滝」と呼ばれる多くの滝があり、それを目指して訪れる愛好家も少なくない。道幅が狭いので、注意して向かって欲しい。