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宿場町のなごり、鯉の里<養父市養父市場>(Vol.45/2002年11月発行)

軒先に色鮮やかな鯉が泳ぎ
多くの旅人や牛市の博労が行き交った
江戸時代の陣屋が残る

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宿場町のなごり、鯉の里<養父市養父市場>

 江戸時代からの陣屋屋敷が現存し、鯉の里として知られる宿場町、養父市場。昭和37年、谷間地峠へ国道9号線が移設されるまでの旧国道沿いには、白壁や土塀、格子や化粧壁が施された重厚な趣のある民家と、昔ながらの店構えが残る商店街が交錯する。旧養父町の中心として賑わい、早くから造り酒屋が存在し、明治から昭和初期頃にも、醸造、生糸、旅館、飲食など数多くの店が軒を並べていた記録が残されている。
 古くは農神と仰がれてきた養父神社へ続く道、江戸時代には、大名の参勤交代が通った出石藩へ向かう分岐点にあり、山陰道として、村岡藩や豊岡藩も利用したといわれる。陣屋屋敷には、殿様が江戸の行き帰りに宿泊された上座といわれる一段高い座敷造りや床の間の壁が回転し逃れ部屋へと抜ける細工が残されている。
 鯉の養殖は、宿場町として
栄える中で、洗いや鯉こくなどを郷土料理としてふるまい、むっちりと締まった身が美味と喜ばれてきた。円山川の中流にあり、豊富な水量と程良い酸素・養分を含んだ水質、養蚕が盛んで鯉の飼料となるサナギが生産されていたことも好条件となり良質の鯉を育んだ。
観賞用の鯉は昭和になってからで、町並みに沿うように流れる4本の水路から巧みに水を引き込み、各家々の軒先で雅さを競うように溝飼いが盛んにおこなわれた。現在、多くの池は埋められ、
数えるほどになってしまったが、
それでも間近に色鮮やかで姿も立派な鯉を見ることができる。
 また、養父市場は、但馬牛の集散地としても有名で、かつての牛市には、牡牛は青、牝牛は赤の首輪で飾られ、農家の人たちに引かれて集まってきた。牛の良し悪しを見分け、売買や周旋をした博労も各地から訪れ、町は一変するほどの賑わいをみせた。牛市場へ入る路地の角には、今も鼻木などを扱う和牛専門の装飾店がある。
 数々の古い歴史を持つ町並みには、この土地ゆかりの人々にまつわる話も語り継がれている。戦国時代、丹波の国直見(京都府夜久野町)から移り住んだ門垣城主といわれる大橋家は酒造や味噌・醤油などを生業にして、郡内屈指の富農として成長し、陣屋を勤めた中大橋家(分家)助左衛門、牛市場に土地を提供した下大橋家(本家)又右衛門、東大橋家といった屋号で呼ばれている。その中でも、中大橋家助左衛門の始祖、正明は300年前、千体の仏像を配したお堂や各地に延命地蔵を建立。千体仏は第二次世界大戦で祠ごと失なってしまったが、当時を知る人は厳かで神々しいまでの様であったと感慨深さを募らせる。
 幾多の時代をさまざまな人が行き交い、数々の歴史を刻んできた町並み。幕末には桂小五郎が寺男として潜んでいたと伝えられている。静かな佇まいが、ゆっくりと時をさかのぼるように当時の様子を彷彿とさせる。
※記事の内容は2002年11月掲載当時のものです。

陣屋屋敷の前で

重厚な表情を持つ家並み

全国に普及している墨の交じった「黒ダイヤ」系の品種は養父でつくられたもの

鯉の溝飼い

水路から巧みに軒先へ水が引き込まれる。塀の向こうは鯉の溝飼いがされている。

道しるべ

右、京・大坂・はりま。左、いつし(出石)の道しるべ。