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千年家のある里<朝来市佐中>(Vol.46/2003年3月発行)

代々受け継がれてきた進藤(しんどう)家
現在は佐中千年家(さなかせんねんや)と呼ばれ
昔の佇まいをそのままに残している

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千年家のある里<朝来市佐中>

 朝来町佐中の集落のまん中にある、ひときわめだつ大きな茅葺きの屋敷が「本家」と呼ばれる進藤家である。平成2年、通称「千年家」と呼ばれるようになった。
 伝説によると千年家の祖は近江の国(滋賀県)三上山に棲息する大ムカデを退治し、関東八州を平定し京を攻めようとした平将門を討伐した鎮西将軍藤原秀郷公(俵藤太秀郷公)であるという。
 その末裔の9代後胤(約200年後)の進藤権之進(1135年)を開祖として、現在27代の当主の進藤正雄氏(茨城県在住)に至る860年間、家系が継承されてきた。初代権之進より第7代目に当たる小源太敦景が、はじめて朝来町佐中に住むようになり、その後、第13代吉左衛門正国によって建築されたのが千年家である。1464年、佐嚢神社が改築され、その頃に千年家が建築されたであろうと推定されている。
 進藤家の歴代当主の中で歴史に大きな足跡を残した人物は、22代丈右衛門長廣氏の六男、俊三郎長政氏である。11歳にして八鹿町の青谿書院で池田草庵に学び、1863年生野義挙に参加、その後、原六郎と改名した。明治維新後、アメリカ、フランス、イギリスと留学し、帰国した彼は金融業界へ入り、第百国立銀行の頭取として活躍し、その手腕は世間に高く評価された。
 のちに金融業だけにとどまらず、各地で発電、紡績、炭鉱、造船、ホテル、鉄道などの創業に関与。明治・大正時代の日本財界に君臨した渋沢、安田、大倉、古河などと共に「日本財界5人男」と呼ばれた実業界の大物であった。
 また、平成13年文化勲章を受章された彫刻家、淀井敏夫氏も進藤家と関わりがある。淀井氏のお父さんが進藤家が経営する進藤林業株式会社に勤めていたことから、淀井氏自身も1911年佐中で生まれ幼年期を過ごしている。淀井氏の作品はあさご芸術の森美術館で見ることができる。
 築500年以上が経っている千年家の門はしっかりとしており、中にはいると木々が美しい庭がある。その庭に、大理石でつくった原六郎氏の胸像が飾ってある。家の中は広い土間があり、右は女中部屋、左には座敷に囲炉裏があり、いつも当主がドンと腰をすえていたという。
 現在、千年家には誰も住まわれていないが、進藤家分家の皆さんたちが管理をされ、昔のままに保存されている。近年ではコンサートや絵画の展示会などの会場として利用されることもある。
 佐中の山々は急な斜面であるが、そこには美しく並んだ杉が植えられている。林業の里として栄えた一端を見たような気がした。日本の歴史に名を残す人物を生み出した千年家の里。今は静かな山間の里として息づいている。
※記事の内容は2003年3月掲載当時のものです。

千年家のいわれが記されている

原六郎の大理石の胸像

きれいな水が流れ、当時のようすを彷彿とさせる

深高寺

時代を感じさせる重厚な門構え

美しい茅葺き屋根

昔の金庫

昔の金庫が無造作に置かれていた。棚には昭和初期のハガキがどっさり。

千年家正面

千年家内観

昔、屋敷の隣に製糸工場を建てて経営していたことがあり、工場の跡地、防災のために池をつくった。製糸工場はなくなったが、池はそのまま残っている。