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生野の路地を歩く<朝来市生野町口銀谷>(Vol.49/2004年1月発行)

生野は古くから銀山の町として栄えた
銀山は巨大な富を生み、全国から人が集まった
独特な文化を醸し出す町並みが、今に残る

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生野の路地を歩く<朝来市生野町口銀谷>

 生野町は播磨と但馬の境界に位置し、銀山の町として栄えてきた。一説には大同2年(807)から銀の発掘が始まったと伝えられ、文献によると本格的な採掘が始められたのは、室町時代天文11年(1542)という。江戸時代は幕府の直轄地として歴史を歩んできた。銀山の隆盛にともなって、江戸や京都、大阪との往来もひんぱんに行われ、独自の文化が生まれた。
 国境の播磨口番所や生野代官所を取り巻くように形成された生野町口銀谷の町並みは、狭く入り組んだ路地が多く、どの路地を入っても格子、土壁、漆喰などの趣向を凝らした家が並ぶ。江戸期の建物も数多く残っている。
 生野銀山で銅などを精錬するときにできる鉱滓(カス)を固めた物をカラミ石といい、家の土台、塀などに使われ、町のあちこちで見ることができる。100年前からリサイクルを実践していたとは驚きである。また、生野の温度差の激しい気候にも耐えられるように硬く焼いた瓦を生野瓦という。カラミ石と生野瓦は生野独特のもので、景観を特徴づけているポイントだ。現在はどちらもつくられていない。路地を歩くと生野瓦が行儀よく並べられているところがある。もう手に入らないので、修理のためのストックだそうだ。
 生野の町には、40人前後の地役人がいたという。地役人とは江戸から赴任する代官などに対して、代々生野銀山に住んだ地元の役人のことで、銀山の監督や番所での監視など幅広い役目があった。地役人の邸宅は玄関前に広場があり、道路に面した庭があるなど共通のつくりになっていて、現在でも昔の面影を残す邸宅が10カ所くらいある。
 生野銀山で働いた人々は数知れないが、それぞれの時代によってさまざまな歴史の足跡が残っている。生野銀山が三菱合資会社の経営になったのは明治29年。口銀谷の細い細い路地を通り、少し急な坂を登って出た小高い場所には、三菱の社宅群があった。東京から配属された人たちが住んでいた。住宅の出窓などは関東の様式を取り入れてつくられたのではと考えられている。現在は誰も住む人はいない廃墟。ここから生野の町が一望でき、高級住宅街、山の手といわれたであろう当時の面影を偲ぶことができる。
 寺町は寺が8つも並ぶ。狭い範囲にいろいろな宗派が集まっており、全国的にも珍しい一角だ。
 平成15年6月に開館した「生野まちづくり工房 井筒屋」は、新しい立ち寄りスポットとして人気がある。井筒屋は江戸時代に生野銀山の有力な山師であった吉川家が営む郷宿であった。郷宿とは公用で代官所に出頭する人々のための宿のことである。主屋は天保3年(1832)に建築されたことが明らかになっている。現在は吉川家寄贈の史料展示や蔵ギャラリー、会議室、手づくりクッキーや小物などの販売もある。歴史を感じる部屋で一服すれば、時間がたつのを忘れてしまいそうだ。
 生野の町がいかに銀山とともに生きてきたか、路地を歩けば見えてくる。細く入り組んだ路地の家々は、きれいに掃き清められ、季節の花が飾られ、そこに生きる人たちの心意気や文化を感じることができる。

ストック用に保管されている生野赤瓦

狭い路地が迷路のように入り組んでいる

カラミ石を塀に使った家のある路地

カラミ石のアップ。どっしりとして大変重い

高台から望む生野の町並み