格子戸、うだつのある町並み
城下町として栄えた八木
中世の歴史を刻み込むまち
鎌倉時代から八木氏十五代が栄えること三百八十年。天正8年(1580)、羽柴秀長の攻めを受けた城主の八木豊信は、剣橋・ふるやが谷・血の谷に及んだ合戦で降伏し落城した。その後に豊臣秀吉は天正13年(1585)に、別所重棟を八木に入れて、養父郡を治める八木藩一万二千石をおいた。
八木城跡には、現在も石垣が残り、当時を彷彿させる。平成9年、八木城跡は国史跡に指定された。今回は城下町として栄えた八鹿町八木の路地を歩く。
八木の歴史は古く、昔は「養耆」と書き示し、今も山陰道が家々を縫うように残っている。この道を歩き、伊勢参りなどに向かったのかと思うと感慨深い。路地の角に「妙見」と書かれた道しるべがさりげなくたたずみ、昔はこの石を目印に歩いたのかと思いを馳せる。
八木氏五代城主、但馬守泰家の建てた今滝寺が隆盛を極めた頃は、観音堂(本堂)を中心にして九院三坊、併せて十二院坊の寺が建ち並んでいたという。現在は今滝寺本堂と仁王門が残り、2体の金剛力士立像が見守っている。
八木の町並みは城下町特有の「折れ」や「クランク」があり、まっすぐな道は続かない。格子戸のある家が城下町の面影を残す。
また、「八木市場」として交易の中心地でもあった。宿場町としても栄え、市場の西と東に旅館が2軒あり、市の開かれる日は両旅館とも満員だったという。戦後までは、竹細工や植木、はさみ、ブリキ、陶器、着物のはぎれ屋などの店々が軒を並べていた。手に職を持つ技術屋もたくさん住んでいたというが、今はその面影はない。しかし、うだつのあがった家があり、当時の繁栄ぶりをうかがわせる。
八木の路地を一本入ると、灌漑用水が流れている。城下町を火事から守るための名残りとか。家々から川いと(洗濯や野菜を洗う洗い場)につながる階段があり、生活に密着した路地がそこにある。池をつくって鯉を放したり、花々を植えたりとそれぞれの家の趣きがある。
500年ほど昔に、八木城主の八木宗頼が八木の殿屋敷で詠んだ歌が残っている。
「宮古にてながめし雲はきえはてて、花の八重立山さくらかな」
隠居した殿様が静かに自分の人生を振り返った歌だ。
現在、この歴史ある八木では、ふる里を誇りに思う人々が集まり「城下町八木の明日を創る会」が結成され、100年先までの八木の将来構想を考えている。
用水路沿いに小さな橋と川いとが点々と続く。家々にとって用水路が生活に密着した大切なものであることがよくわかる。