粟鹿山のすそ野に広がる肥沃な盆地
神々が集まって国を開いた伝説が残る
のどかな里の風景にとけ込む粟鹿神社
山東町粟鹿の里は、粟鹿神社を中心に古くから栄えた土地である。現在建設中の北近畿豊岡自動車道(和田山│春日)に伴う「粟鹿遺跡」の発掘調査で、奈良時代のものと思われる大きな建物の跡や土器、木簡などが多数出土した。このことから、粟鹿神社の敷地はかなりの大きさを誇り、但馬国一の宮と呼ぶにふさわしい勢力を持っていたことが立証された。
粟鹿の地名の由来は、昔々、但馬の神々が粟鹿山へ集まり、泥海の泥水を日本海に解き放ち、現在の但馬の地をつくったと伝えられている。故にこの粟鹿山を見国山というとか。途中に白鹿が粟を3本角にかけて来て、神様に献上した。このことから、この地を粟鹿と名付け、鹿の来た方向の地を三穂(今は三保)というそうだ。
粟鹿神社は阿米弥佐利命が主祀神で、延喜式に定める名神大社でもある。創建は二千年の昔に遡ることができる。また、神徳高い神社として朝廷の尊崇も厚く、国の大難に4度にわたり勅使を派遣し、御加護を得られたことにより約600年前に勅使門が建てられた。全体的には唐様でありながら、天竺様の手法が取り入れられた貴重な文化財で、通常は年2回の大祭以外は開かれることはなく、俗に「開かずの門」とも呼ばれている。また、スギ・ヒノキの古木におおわれ1540坪にも及ぶ広大な神域の社叢林は、凛とした空間をつくり出し、町指定天然記念物に指定されている。
先の埋蔵文化財調査で旧参道も明らかになったが、全国を測量調査した伊能忠敬もこの参道を通り神社に参拝したという。忠敬は広大な神社の領域に何を思ったことだろう。
粟鹿神社から當勝神社へ向かって坂道を400メートルほど行くと、左手にこんもりとしたケヤキやツバキ、カシなどの自然林がある。この大地は「比叡截頭段丘」と呼ばれ、大昔に粟鹿山から流れ出た土砂が堆積して、ゆるやかな台地を形成した。
坂道を登りきり、山すそにあるのが當勝神社。但馬・丹後・丹波の三国に広く信仰を集め、現在の本殿は安政6年に、拝殿は慶応4年に建てられた。特に龍や鳳凰などの彫刻がすばらしく、とりわけ旧本殿は彫り師・中井言次といった当時の工匠の技が発揮された力作で、ユニークな架空の動物も見ることができる。
また、神社には有名な落書きがある。田英夫氏(前参議院議員)の祖父にあたる健治郎氏(台湾総督・逓信大臣)が上京前の若い時、「私は今、志を抱いてふるさとを出て行く。今考えていることができなかったら死んでも帰らない」と漢文で柱に書いている。
當勝神社から林道を200メートルくらいのぼると「西宮市立山東少年自然の家」がある。天体観測室、創作活動室、野外炊飯場、スポーツゾーンなどが完備されており、夏は自然学校や青少年を中心とした利用者でいっぱいであるが、冬の時期は一般の方々も利用できる。
さらに、すぐ上の高台には「さんとうアウトドアビレッジ」があり、テントサイトやバンガロー、研修棟などが整備されており、まさにこのあたりは野外活動、自然体験学習のメッカである。
ここから真下にある鹿園寺は山号を比叡山という。寺から北へ伸びる台地は「遠園」というそうだ。なんとものどかな夢のある名だろう。向かいの山は大同寺山で名刹大同寺がある。春はツツジと桜がきれいだ。柔らかな風の中、粟鹿の里に春を探しに行こう。
粟鹿神社の七不思議
1:旧暦2月4日に境内の茗荷神社の池に生える茗荷の育成状況によって、その年の稲作の豊凶を占うという。
2:勅使門の彫刻二羽の鳳凰が毎夜に鳴くので、作者の左甚五郎が一羽の首を切り落とすと、以後鳴かなくなったという。
3:御手洗の池を三回まわって手をたたくと大蛇が出る。
4:境内の御陵柿の柿は今だかつて実のならなかった年はないという。
5:玉の井の水は天下の名水で、どんな大飢饉旱魃の年にも枯渇したことがない。
6:亀を放すとよいといわれている四角い池の水は、奈良の二月堂の水に通じているという。
7:御手洗の池に丸木の橋をかけ、その上に俵を置いてお祈りすると必ず雨が降ったという。
地元では「開かずの門」と呼ばれる勅使門。町の文化財に指定されている。
毎年10月17日に行われる「さぁござれ」の儀式の中で、粟鹿神社に奉納される御稜柿。粟鹿神社の七不思議にも登場し、今だかつて、実がならなかったことがないという。