にぎわう観光街から少し足を運び
旧京街道の脇道へと進む
静かな山里には歴史の足跡が隠れていた
赤土色の庁舎と城跡に挟まれた、東へとのびる道。鯵山峠へと続く旧京街道だ。
ウナギの寝床といわれる古い町並みを残す材木地区を過ぎると、谷山川に沿って下谷地区、谷山地区へと続く。出石を歩けば四方で寺にぶつかるといわれるが、この街道沿いには砦を兼ねた経王寺がある。慶長9(1604)年、2代城主小出吉英が有子山の麓に城を移した時、主要な街道口や辻などには、戦いの時に砦の役目を果たす寺院を置いたそうだ。
石部神社を過ぎ、左に折れる細い路地に入ると茶臼山古墳のあるのどかな田園風景が広がる。緩やかな登り坂はその先にひっそりと佇む笠森神社へと続く。地元の人は「笠森さん」と親しんで呼ぶ。これまでに一度も枯れたことがないという井戸があり、その井戸水に触れると皮膚病などに効果があると言い伝えられている。
社中の「神徳為天」と書かれた掛け軸には出石町出身の政治家・斉藤隆夫の落款がある。国会での粛軍演説や反軍演説で後世に名を残す斉藤の書がなぜここにあるのか。その理由は書の中に記されている。
アメリカ留学中にろく膜炎をわずらい、度重なる手術を受けた斉藤は死をも覚悟したという。心配した家族や知人は霊験あらたかな笠森神社に参拝し、斉藤の病気平癒を願った。掛け軸は、7度目の手術に成功し健康を回復した斉藤が、感謝の気持ちを込めて神社に奉納したものだ。
斉藤は神仏への信仰心はなかったという。人一倍強い向学心で我が道を切り開いてきた彼だが、この時ばかりは自分を支えてくれる周囲の人々の存在を強く感じたのではないだろうか。
下谷側から入佐山を登ると、緩斜で登りやすい。3、2、1号噴と古墳が続く。
この入佐山古墳は大正、昭和に発掘調査が行われ、古墳時代の副葬品が数多く出土している。調査後は元通り埋められているので、現在は古墳の上を通るというわけだ。道の脇には所々に歌碑があり、入佐山を歌枕にした歌が刻まれている。
「山をいでて うき世をめぐり また山に 入佐の月や 身の類なる」。たくあん漬けで有名な沢庵和尚の歌だ。
徳川家光から厚い帰依を受けた沢庵は、再三江戸に呼び出され、故郷に落ち着くことができなかった。月は入佐山へ帰っていくのにどうして私は帰れないのか、と故郷での静かな生活を望む沢庵の想いが歌われている。
山頂部(1号噴)からは酒蔵、庁舎、中学校など、出石独特の赤土色が配色された町並みを見渡すことができる。
観光地の賑わいは届かない。のどかな風景と静けさが広がる谷山周辺の山里。街中のような派手さはないが、ここにも出石ならではの風情や歴史の足跡を見つけることができた。
笠森とはもともと瘡守(かさもり)。疱瘡(ほうそう)から守ってくれる神様として信仰された。別名「疱瘡神社」と呼ばれている。