思わず引き寄せられる懐かしい風景
味わい深い商家や寺社、小径のお地蔵さん
町並みには今も市場の歴史が垣間見える
養父市広谷、中世この地域には大規模な市が立てられ、商いをする人々の活気であふれていた。
天正11年(1583)、羽柴秀長の令によって始まった広谷市場の歴史は、その後約360年にも及ぶ。代々出石領主から納税免除などの保護を受けた広谷市場は、町場として発展し栄えた。
かつて市は日本全国河川の近くに立てられることが多かった。広谷は18世紀の初頭には大屋川を利用して豊岡までの通船が始まっていたという。養父市場が牛の商いで賑わう一方、広谷市場は近隣の村々との産物交易によって繁昌したそうだ。
現在市役所が建っている辺りから、広谷小学校の北西に市が移されたのは元和5年(1619)。出石城主小出吉英によって、直角に曲がる2間半(1間は約1.8メートル)の通りと、水路を挟んだ新しい町並みが建設された。軒を連ねた家々には今も商店が多く、当時の面影が残る。
広谷を歩くと、まず、町の至る所で水路が目に入る。享保2年(1717)、大火で町一帯を焼失するという大災害に見舞われた広谷には、火事から町を守るために水路が張り巡らされたのだそうだ。また、この時に中心地の道路も拡幅され、現在の4間道路となった。こういったいち早い町並みの復興は、広谷の町場としての繁栄を物語っている。
4間道路の両脇に立ち並ぶ家々の隙間には、幾通りもの細長い路地がある。そのうちの1本は旧街道。広谷と八鹿町朝倉を結ぶひとえ坂へと延びる(漢字表記は一日、一重、一枝と数通りある)。この坂は古くから主要街道として利用されており、伊能忠敬の測量日記にもその名が登場する。現在も県道として認可されたまま、かつての名残をとどめている。
坂の登り口付近には、通称「相撲塚」と呼ばれる石碑が並ぶ。草相撲の盛んな明治期、力士の引退興行の記念や慰霊碑として建てられたそうだ。碑には大きくしこ名が刻まれており、地元出身の力士を讃えている。
少し登ると、坂大師堂という小さなお堂がある。地元ではここに祀られている小さなお地蔵様を借りるという風習が残る。子宝に恵まれない夫婦がこのお地蔵様を持ち帰ると、不思議に願いが適うのだとか。
坂の頂上付近からは、広谷の町が一望できる。かつてここから眺める景色は、街道を行き交う人々に町のにぎわいを伝え、大きな安堵感を与えたことだろう。
山々に囲まれた穏やかな町並みは、今も昔と変わらず、心を和ませる。
明治時代、広谷では醤油や酒の醸造を営む店が多かった。4間道路のほぼ直線上に位置する軽部神社には毎年「かるべの郷」という銘酒が奉献されている。
墓地の中を縫うように、細長く延びるひとえ坂。登り口から頂上付近まで石畳で舗装されている。