集落を横切る明治期に掘られた水路
壮大な棚田が広がるのどかな農村の風景
自然豊かな山あいの村を歩きました
扇ノ山を源流とする岸田川上流、新温泉町田中地区から山手に道を上がっていくと、山あいの静かな村、青下地区が見えてくる。
青下の人々は主に、米づくり・養蚕・炭焼きなどで生計を立てていたそうだ。昭和10年頃には、ここからさらに奥の霧滝地区から切り出された原木を加工する製材所があり、大きなボイラーがあったという。その後火事で焼けてしまい、今は往時の様子をうかがい知ることはできない。
集落に入ってまず驚くのが、田畑の広さ。山村とは思えないほどの見事な石垣群で構成された棚田が、あちこちに広がる。
その裏山の中腹には、「鳴滝」と呼ばれる落差約30メートルの滝が流れ落ち、棚田と相まって壮大な風景に圧倒される。
「なぜこの山あいの村に、これだけの田畑があるのか」その答えは、棚田の一番上を横切る水路。村の田んぼはこの水路から各々水を引き入れ、稲が育てられている。おかげでどんなに日照りの年でも、水不足で困ったことはないそうだ。
水路の水源はここから約4キロ先の岸田川上流。明治3年から3年の歳月をかけて、青下の10町歩に及ぶ新田開発のために造られたという。水路の上を歩くと、ほとんど勾配を感じないが、隙間から下をのぞくと、確かに水が流れている。寸分のくるいもない正確な測量は見事なもので、一説には東京の玉川上水の技術が利用されているといわれている。
重機などの機械がない明治初期のこと。これだけの距離すべてを人力で掘ったというから、工事関係者の努力とその苦労は想像を絶することであっただろう。豊かな水を利用して、集落には水車が4基もあったという。精米機が普及する昭和30年頃まで、穀物の脱穀や精白・製粉が行われていた。
また、この水は発電所にも使われている。そのおかげで、青下には近くの村よりいち早く、大正7年に電灯が灯され、昭和30年まで無料供給された。先人たちの努力によって建設された水路は、村に大地の恵みだけでなく、様々な恩恵をもたらしてきた。
集落の中に鎮座する白山神社は、村の氏神さま。元々、旧美方町の山奥にあったが、冬は雪で閉ざされる山中だったために、当地区が土地を提供し、今の地に移ったとされている。
向かいには、明暦元年(1653)、京都の北野天満宮から勧請され、菅原道真を祀る青下天満宮が鎮座。学問の神様として信仰を集め、かつては小学生が学業成就の祈願に訪れたという。毎年、5月の第4日曜日には祭りが開かれ、弓道大会や綱引き、傘踊りなどのイベントが行われている。
天気のよい日、杉木立の間からは、仏ノ尾の山並みを望むことができる。富士山に似た美しい山で、周辺の村からは見ることができないそうだ。村の人たちにとって一番お気に入りの場所なんだとか。
近代化遺産と古き良き山村の景色が残る青下の町並み。絶えることのない水の流れが、この村の歴史を雄弁に物語っている。
集落には洗濯や食器洗いなどに利用された「川いと」が残る。
台風時などには閉められ、水量を調節している。