円山川の中洲上に発展した和田山
旧街道には虫籠窓、うだつのあがった家が残る
宿場町として栄えた趣のある路地を歩く
元々は、「環田山」という字を書いたといわれる朝来市和田山町和田山地区。
なぜ、「環」なのか。その答えは、イラストが示すように、和田山の地を俯瞰して見るとよく分かる。円山川が環を描いて北流し、その環の中に町と山が包まれている。和田山は、円山川の中洲上に発展した町なのである。
「この地区は、わずか18戸から始まったんですよ」とは、案内役の圓龍寺住職、田村信隆さん。
寺には『和田山の 源はこの 岩清水 清水庵(圓龍寺の旧名) 十八戸より 町造り』という句が残り、この寺を環の中心とする門前町として、町が形成されたそうだ。
かつて駅周辺には河原が広がり、水遊びをする子どもの姿が見られたという。コウノトリもよく飛来してきたそうだ。町内にはその名残を伝える、「群鶴亭」という旅館が残っている。
中洲上にあるが故に、水害の多い土地でもあった。8月の地蔵盆に行われる但馬三大祭りのひとつでもある「地蔵祭」は、そうした土地柄を伝える伝統行事。
円山川の洪水によって亡くなった水死者の霊を慰めるために、近隣の人々が圓龍寺に子安地蔵尊を建立したことが、「地蔵祭」の起源とされる。寺は極楽浄土があるとされる西方を向き、祈りの寺として住民の信仰を集めてきた。
明治初年に寺を中心に6町内が作られると、それぞれ水難のあった6カ所に地蔵菩薩が出開帳され、七所参りとして盛大に行われるようになったそうだ。
こうして、門前町として栄えた和田山だが、山陰道と播但道の分岐点であったことから、宿場町としても賑わいを見せた。
圓龍寺から斜めに延びる道は、旧街道。今でも漆喰の土壁、虫籠窓、うだつをあげる立派な町家が佇み、近代商業施設が建ち並ぶ国道沿いとは一線を画している。
特にこれだけうだつが残っている町は、但馬でも珍しい。うだつは、『うだつがあがらない』の語源であり、かつては豊かさの象徴であった。養蚕で生産された繭の集積地として繁栄した町の歴史を色濃く物語っている。
旅館も数多くあったそうで、夜になると、華やかな三味線の音が聞こえてきたという。材木屋、舟屋、紺屋、あめ屋などの屋号も残り、この地が古くから商業地、宿駅として栄えたことが分かる。
「環」が人の「和」となり、発展を遂げてきた和田山。旧街道筋には、町歩きを一層楽しくさせる狭い道が入り組み、これぞ「裏路地」といえる町並みが広がっている。
明治44年、播但線と山陰線の接続駅となったことにより、翌45年、機関庫と給水塔・転車台、引き込み線などが建設された。平成3年頃まで、現役として活躍したが、現在は老朽化のため、中は立入禁止となっている。全国的にも珍しいレンガ造りの機関庫で、半円型の入口部には、白御影石が用いられている。
古い町並みの中で、ひと際目立つ洋館建ちのモダンな医院。玄関を中心として、左右対称にデザインされている。昭和5年の建設で、一度も改築されていないという。屋根中央には、換気窓が設置されている。
黒漆喰の虫籠窓、格子戸、うだつは、貫禄十分。
圓龍寺の斜め前から延びる旧街道は、特に立派なうだつをあげた旧家が多い。探検心を誘う細い路地が至る所に点在し、町を歩くだけで楽しい気分に