かつては陸の孤島であった鎧の村
駅に降り立てば広がる日本海の絶景
迷路のような狭い路地が旅情を誘う
『トンネルを抜けると、高架のようになった鉄路の下に鎧の村が見え、列車は速度を弱めた。夏彦は立ち上がり、そっと指差して、「あれが鎧の村だよ」と澄子に教えた。入江から出て行く漁船を、老人が防波堤に立って見送っていた。』
これは、宮本輝の小説『海岸列車』の一節。物語では、幼い頃母親に捨てられた主人公の兄妹が、「人間の依りどころ」を求めて、母の住む鎧の駅へ何度も降り立つシーンが描かれている。
『海岸列車』という題名の通り、駅のホームからは、紺碧の日本海と青空がどこまでも続く。海を見下ろす駅として、鉄道ファンの間でも人気が高く、テレビドラマ『ふたりっ子』や『砂の器』のロケ地としても使われた。
鎧駅は明治45年3月に、余部鉄橋の開通に合わせて建設された。それまで陸の孤島であった鎧にとって、列車は大切な交通手段となった。昭和42年に港から国道までの道路ができたことにより、村に初めて車が走ったそうだ。
「小学校4年生になると、隣村の余部の本校に通うことになるんですが、通学路は線路。暗闇のトンネルを抜けるのは、子供ながらに怖かったですね」とは、自治会長の上根さん。機関車の黒煙で、トンネルを抜けると、買ったばかりの白い靴が1日で真っ黒になったという。
駅から急な坂道を下ると、鎧の集落がひっそりと佇む。漁村特有の焼き板に覆われた家々が旅情を誘い、潮の香りが心地よい。
眼下には、鎧漁港が見える。入江は風よけ地となり、古くから天然の良港として栄えたという。
途中の斜面に現れるコンクリートで固められた2本のくぼみは、港の繁栄ぶりを示すもの。水揚げされた魚を駅まで運ぶために使われたケーブル跡で、昭和26年頃に建設された。最盛期には三日三晩、大量のサバを積んだ貨物列車が往復したそうだ。
それまでは、お母さんたちがかごを背負って坂を上っていたというから驚き。山すそに立地する集落には急な坂道が多く、鎧の人たちはきっと健脚揃いに違いない。
密集した民家の間を縫うように延びる路地は、まるで迷路のよう。海が見える見晴らしのよい場所には、海の安全を祈願したものか、お地蔵さんが所々に佇んでいた。物干しに吊されたわかめ、狭い路地を通り抜ける猫…。どこを切り取っても、映画のワンシーンが広がっている。
潮騒をBGMにのんびりとした時間が流れる鎧の町並み。梅雨が明ければ、短い但馬の夏がやってくる。さあローカル線に乗り、鎧の駅に降り立とう。
駅ができるまで輸送手段がなかった鎧では、狭い土地を切り開いて田畑を造り、自給自足の生活が営まれていたという。石垣ひとつにしても、海岸の石を拾い上げて造られたそうだ。
旧公民館はその昔、庵が結ばれていた。宮津市の成相寺の住職だった人物が建立したといわれる。立派な薬師像が祀られている。
海を見下ろす駅として全国でも稀少なJR鎧駅。JRのポスターやロケ地として使用されることが多い。車窓に映し出される絶景は、爽快の一言。
港から駅までを結ぶ魚類運搬車軌道跡。ケーブルでつながれた台車が魚を運び、列車で出荷されていった。
焼き板の壁を縫うようにして、細い路地が入り組んでいる。くねくねした道が心地いい。
鎧漁港は天然の良港として重宝され、昔から漁業が盛んだった。西側は護岸工事がされているが、東側は住民の依頼により、昔のままの火山岩の岩肌が残されている。
町の文化財に指定されている大放(おおはなち)神社(左)。十二社神社の末社で、鎌倉末期の建立といわれている。10月5日には麒麟獅子舞が奉納される。境内のシイの巨木は根のこぶが見事で、年輪を感じさせる。