のどかな田園風景が一面に広がる「緑風の郷」
古墳を始め、戦国・幕末期の歴史遺産が残る
古代から開かれた伝説の場所をのんびり歩く
四方を山々に囲まれ、のどかな田園地帯が広がる朝来市山東町与布土。周辺には古墳がたくさん見られ、この地が古くから開けた土地だったことをうかがわせる。延長3年(925)の『但馬世継記』にも、「與布土ノ里」として記述されていて、集落の歴史は古い。
与布土が一望できる衣笠山は、戦国時代、山名四天王と呼ばれた竹田城主・太田垣氏の命により、山頂に砦が築かれていた。
但馬守護・山名氏から離反した太田垣氏は生野銀山の支配権を巡って対立状態にあり、衣笠城は竹田城の見張り基地としての役割を担ったという。頂上付近に残っている防御陣地の跡が往時の様子を今に伝えている。
山すそには城主に据えられた松岡盛祐の居館があったとされ、今でも辺り一帯は「古屋敷」と呼ばれている。その他にも、「馬場」や「的場」といった地名が残り、戦国時代の名残が見られる。
与布土川を挟んで対岸に位置する玉林寺は、永禄3年(1560)、盛祐が創建したと伝える臨済宗の古刹。春は桜の名所として人気があり、山門前のソメイヨシノと境内のしだれ桜が折り重なる情景は得もいわれぬ美しさだ。
また、当寺は幕末に会津藩の御用商人として活躍した足立仁十郎の菩提寺としても知られる。与布土で生まれた仁十郎は、長崎で人参貿易商として財をなし、その後、会津藩に召し抱えられ、動乱期の財政を支えた人物。
寺には、肖像画や会津藩の家紋が入った通行手形などの遺品が大切に保管されている。
さらに仁十郎は地元の発展にも力を入れ、地区の氏神である八幡神社にも寄進をしている。「森の八幡さん」として親しまれるこの神社は、松岡盛祐が創建したとされ、5部落の氏神を兼ねることもあり、広い境内と見事な社そうが広がる。中でも、近年に修復された石垣造りの桟敷(観覧席)は立派なもので、今でも秋祭りには子供相撲が奉納されている。
一方、茅葺き屋根の山崎邸は倒幕方の舞台となった場所だ。山崎家は、応仁の乱で山名宗全より感状を与えられた与布土又三郎を先祖に持つ古くからの土豪で、子孫の甚兵衛(誠蔵)は生野義挙で活躍した。義挙は失敗に終わり、母屋の各所にある傷痕は、幕府のお咎めを恐れて農民が付けたものである。
現在は郷土資料館の他、「百笑茶屋 喜古里」が開設され、とろろごはんやそばなど、地元の食材を使った料理や土産を販売している。
歴史遺産が各所に残る与布土地区。地元では次の世代へ伝えようと、地域資源の掘り起こしを積極的に行っている。印象的だったのは、どの遺構も清掃が行き届いていたこと。地域の文化を大事に守り伝えていく心意気が感じられた。
戦国時代、衣笠城主・松岡盛祐が創建した玉林寺。松岡夫妻の位牌をお祀りしている。春は山門前のソメイヨシノと境内のしだれ桜の絶景で賑わう。(写真提供:坪井茂喜さん)
庄屋屋敷の面影を今に残す山崎邸(山東郷土資料館・農家レストラン「百笑茶屋 喜古里」)。築150年以上前の旧家で、与布土地域の歴史・文化を伝える展示品が飾られている。
集落の中心にある「よふど温泉」は、新陳代謝をよくするラドンの含有量が多く、市内外からたくさんの温泉客が訪れる。7月中旬にはハス祭りも開催される。(写真は端午の節句の頃)
八幡神社の鳥居の前には、桧並木の参道が広がっている。かつては灯籠もあり、この参道を通って、参拝に訪れたという。
立派な土俵と豪壮な桟敷が目を引く八幡神社境内。舞台もあり、かつては相撲の他に村芝居なども上演されていた。本殿の龍の彫刻(上)は、豊岡の秋塚治助広貞の作と伝わる。