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建屋周辺を歩く<養父市建屋>(Vol.81/2012年1月発行)

山名四天王・太田垣氏の本拠地として栄えた町
お地蔵さんや名号塔などの石造物が数多く残る
中世の農村都市の面影をたどる旅へ出かけよう

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建屋周辺を歩く<養父市建屋>

 のどかな農村風景が広がる県道70号沿い。清らかな水をたたえる建屋川と相まって、時間が止まったような気持ちにさせてくれる。この流れに沿って車を走らせると、いくつかの集落が点在する。養父市建屋は昭和30年代まで建屋村として、これら集落の中心地であった。
 現在の診療所が建つ場所はかつての役場跡地。今でも小学校、郵便局、駐在所、農協などがあり、マイカーがなかった時代は商店街が形成されていた。
 「ここは旅館だった家です。こちらは魚屋、あそこは造り酒屋、鍛冶屋さん…。私の子どもの頃は約半数の家が商売を営んでいましたね」とは、案内役の藤原弘さん。 通りにはレトロな看板やうだつの上がった家々が見られ、藤原さんは当時の町を歩いているかのようにお店の職名を教えてくれた。
 中世には但馬守護・山名氏を支えた太田垣氏の本拠地であったと考えられている。集落の西側にある尾根の先端部には、市内でもトップクラスの大規模城郭「建屋ウスギ城」が築かれていた。山城のすそ野には「殿屋敷」「馬場」「ビクニ畑」といった地名が残り、規模の大きな城郭都市があったそうだ。
 そのことを示すかのように、平成15年のバイパス工事に伴う埋蔵文化財調査では、室町時代前半の流水型庭園跡が出土。当時の武家庭園文化の先端を行く庭造りであったとされ、中世に武士が台頭していく状況を示す貴重な遺跡とされている。「場市」という地名もあり、周辺は市場もあってかなり栄えていたそうだ。
 集落内にも太田垣氏ゆかりの建物が残る。建興寺はウスギ城主であった太田垣久朝の位牌が祀られている寺院。一族が戦勝祈願のために建立した妙見堂の棟札も保管されている。
 城跡の対岸にある建興寺の周辺には寺院が連続して建てられており、戦いの際には防御施設として機能するように配置したとされる。現在も西教寺、阿弥陀寺と3ヶ寺が軒を並べ、寺町通りとして、情緒ある景観を形成している。
 小さな町に3つも寺院があることからか、町の中にはたくさんの石造物が迎えてくれる。お地蔵さんや「南無阿弥陀仏」を刻んだ名号塔など、あちこちで見つけることができるのも建屋の町並みの特徴だ。
 地元の人の信仰心の篤さを感じられる建屋地区。通りを歩けば、どこか穏やかな空気が集落全体に広がっている。中世の農村都市の面影をたどることができた。

阿弥陀寺

阿弥陀寺は約410年前の創建で、本堂は約230年前に再建されたもの。江戸時代後期の高僧・徳本上人の塑像が祀られている。徳本は念仏聖として知られ、各地に「南無阿弥陀仏」と刻んだ名号塔が建立されている。

阿弥陀寺にある徳本行者の塑像

建屋小学校区内には徳本上人の名号塔が10基も建立されている。住民の信仰心の篤さがうかがえる。

集落内に数多く残る名号塔

集落内に数多く残る「名号塔(左・中)」。名号塔は「南無阿弥陀仏」の六字名号を彫った塔のことをいう。他にも地蔵や三界万霊塔などの石造物が点在している。道路元標(右)は道路の起終点を示し、大正9年に各市町村の中心地に設置された。

建興寺

建興寺は太田垣氏ゆかりの寺院。太田垣一族との関係が分かる「両松寺妙見堂の棟札」が残されている。また、明治初期には小学校として利用され、傍らには「建屋小学校発祥の地」を記した石碑が佇んでいる。

水路

川から引かれている道路沿いを流れる水路。生野代官の命により造られたと伝えられ、かつては生活用水として使用されていた。

西教寺

約410年前の創建とされる西教寺。昭和49年には長持の中から蓮如上人の御影像が発見された。塀には小窓が空けられていて、大変味わいがある。並び立つ3ヶ寺とも本尊は阿弥陀如来で、正面は西向きに建てられており、西方浄土を拝する形となっている。

古い養蚕住宅

古い養蚕住宅とその前にある可愛らしいバス停がのどかな雰囲気を醸し出している。

かつて医院として活躍していた歴史のある看板

ヒダリマキガヤ

京都府知事として琵琶湖疎水の開発に尽力した北垣国道翁の生家跡が残る。生家跡にある「ヒダリマキガヤ」は西日本最大で国の天然記念物に指定されている。