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余部を歩く<香美町香住区余部>(Vol.80/2011年10月発行)

鉄橋から新橋へと生まれ変わった余部橋りょう
橋りょうとともに歩んできた約百年の歴史…
さらなる百年に向けて動き始めた余部を歩く

余部を歩く<香美町香住区余部>(Vol.80/2011年10月発行) マップを拡大して見る

余部を歩く<香美町香住区余部>

 1年前の夏、約100年の歴史に幕を閉じた余部鉄橋。架け替えられたコンクリート橋は旧橋のスレンダーなイメージを踏襲し、直線で構成されたスマートな美しさをみせる。
 新しい橋を通り過ぎる列車の音は、以前に比べて遥かに静か。「以前は列車が通る音で時間を計ったが、今では通り過ぎたことに気づかない時もあるんですよ」と、地元の人が教えてくれた。
 明治45年1月に鉄橋が開通したことにより、香美町香住区にある余部の町は、この橋りょうとともにいつも暮らしてきたといっても過言ではない。かつては陸の孤島と呼ばれていた場所。北は日本海、三方を山で囲まれ、町へ出るためには、車も通れない峠道しかなかったという。
 そうしたエピソードは地名からもうかがえる。「余部」という地名は各地にあり、律令時代、50戸を郷(里)としたが、それに満たない小集落を「余戸」と呼んだ。それぐらい人が住むには、厳しい土地だったことが分かる。
 鉄道が開通して便利になるかと思われた余部地区であったが、肝心の駅は建設されず、頭上を汽車が通り過ぎるだけだった。
 「汽車に乗るためには、隣りの鎧駅まで鉄橋を渡り、トンネルを抜けて約1.8キロ。トンネルは運行の合間を縫ってすり抜けていたので、臨時列車がきた時は冷や汗ものでした」とは、案内役の山本和夫さん。余部に駅を設置することは住民の悲願となっていた。
 「この道も住民がボランティアで造ったのですよ」と山本さん。小中学生が訴えた手紙に、当時の県知事や国鉄総裁が心を動かされ、昭和34年に駅の新設が決定された。少しでも経費の負担を減らすため、大人や子どもたちが総出で駅までの道を造り、ホームの基礎となる石を浜から運び上げたそうだ。
 「子どもたちが学校の行き帰りに、浜のグリ石を拾って運んだものです。私もそのひとり。駅ができた時は本当にうれしかったですね」と、感慨深げに山本さんは語った。
 駅ができて一番喜んだのは子どもたちで、毎日交代で掃除をしたそうだ。今でも子どもたちの手により、駅はきれいに保たれている。
 昨年秋に復活した駅の展望台は、橋りょうと日本海、そして集落全体が見渡せる絶景ポイント。海からは激しい季節風が吹きつけるため、家々が海に対して縦向きに建っているのが特徴だ。港町特有の焼き板の壁も風情があっていい。
 来年には橋下に道の駅が完成予定。さらに残された3基の旧鉄橋を活用した展望施設「空の駅」が整備される計画も進んでいる。
 さらなる100年へと、橋りょうとともに歩み始めた余部の町。ローカル線に揺られて、餘部駅でひと休み。先人たちの歴史に思いをはせながら、のんびりと足の向くまま旅してみてはいかがだろう。

余部橋梁

餘部駅へ上がる道からは、新旧の橋りょうを見ることができる。残された鉄橋は空中散歩が楽しめる展望施設「空の駅」として活用されることになっていて、余部の新しい観光名所として期待されている。

安養寺の薬師堂

安養寺の薬師堂には薬師如来像を始めとして、7体もの仏像が祀られている。その昔、旅人の治療院として、病気平癒の祈願が行われていた。

餘部駅

駅名は「餘部駅」と表記され、地区名と異なる。これは姫新線の余部(よべ)駅と区別するためとされる。構内には鉄橋の一部を活用したベンチが置かれている。

長福寺

曹洞宗の古刹である長福寺。意匠の凝らした彫刻が見事な山門は柱が12本もあり、珍しいのだそう。また、境内にある2本のタブノキは町の文化財に指定されている巨木。余部橋りょうを望むことができ、絶好の写真スポットにもなっている。

長谷川の河口にある弁天さん

海の守り神として、信仰されている。

民家の軒先にある石碑

明治の大火のおり、ここで火が止まったことを記念して、火の神として祀っているそうだ。

お地蔵さん

海側の集落は海風を耐えしのぐために家々が密集し、細い路地が入り組んでいる。水害の多い場所だったこともあり、浜にはお地蔵さんが安置されいている。