明治の近代化を支えた「神子畑鉱山」の面影
東洋一と呼ばれた「選鉱場」、巨大なシックナー…
鉱山師たちが暮らした足跡がここにはある
国道429号を神子畑川に沿って西に進むと、東洋一といわれた神子畑選鉱場跡がある。平成16年に取り壊され、今はコンクリートの基礎部分を残すだけだが、かつては不夜城のような光景が広がっていた。静かな山あいに、これだけの設備があったとはとても驚きだ。
「明延鉱山で採掘された鉱石の選鉱場というイメージが強いですが、元々は鉱山だったんですよ」とは、案内役をお願いした山内区長を始めとする地元有志の皆さん。
はっきりとした史料は残っていないが、古くは生野鉱山と同じ、平安初期頃には開山されていたと言い伝えられている。
神子畑鉱山が最も繁栄したのは、近代に入ってからのこと。生野鉱山周辺を調査した結果、明治11年、神子畑で銀鉱脈が再発見される。新たな鉱脈は「加盛山」と呼ばれ、生野鉱山の支山として銀の採鉱が始まった。
しかし、採鉱の不況により明治40年以降は苦境に立たされることになるが、明治42年、明延でその名を世に知らしめる「錫鉱脈」が発見されると、神子畑は新たな道を歩むことになる。明延で採鉱される鉱石を選鉱する場所として、生まれ変わることになったのだ。
「選鉱」とは、採掘した鉱石を有用鉱物と不用鉱物とに分離する作業のこと。効率よく順番に選鉱するため、山の急斜面を利用して選鉱場は建設された。22もの階層があり、その規模は幅110メートル、長さ170メートル、高低差は75メートルにも及んだ。
「東洋一と呼ばれるのは、規模の大きさから。日本有数の選鉱場がこの山里にあったとは非常に感慨深い」と、説明役の藤本さんは話す。
昭和30年頃には約1300人もの人が生活していたという神子畑地区。スーパーであった購買会、映画を上映した協和会館や文化会館(卓球・柔道・ビリヤード)など、福利厚生施設も充実していた。
明治33年にはいち早く私立の小学校が創立。その4年前に三菱へ経営移管され、東京の本社から社員が移り住んできたこともあり、教育には熱心だったそうだ。その後、公立の分校となってからも生徒数は増え続け、最盛期には230人を超える小学生が在籍していた。
「毎日が参観日のように賑やかでした」とは、分校の教員として勤務していた上田先生。学校がどんどん手狭になり、体育館ができるまでは毎年、入学式の場所に苦慮していたそうだ。
その他にも、フランス人技師の宿舎だった「旧神子畑鉱山事務舎」や日本最古の鋳鉄橋である「神子畑鋳鉄橋」など、鉱山の面影を偲ばせる建物が残る神子畑の町。春は川沿いの桜並木が満開を迎え、1年で最も美しい季節を迎えるそうだ。近代化の原点をたどる旅へ出かけてみてはどうだろうか。
旧神子畑鉱山事務舎は明治20年に生野鉱山から移築された建物。神子畑では永く診療所として活躍した。元はフランス人技師たちの宿舎で、同建物は5つあった内の2番館である。技師団の中でコワニエに次ぐ地位にあったムーセの名をとり、通称「ムーセ旧居」として資料展示、一般公開されている。
官営時代に建設されたことを示す瓦の「菊の御紋」
山の斜面に造られた建物は迫力があった。
液体中に混じる固体粒子を分離する装置「シックナー」は百尺(約30メートル)の他に、55尺(約16メートル)がある。
平成16年に解体工事が終了した「神子畑選鉱場」跡。現在はコンクリートの基礎部分とケーブルカーの軌道跡が残る。一帯は公園として整備されている。
小学校のグラウンド奥に佇む「山神宮」跡(奥)。毎年、4月には大祭が行われ、鉱山の繁栄と安全が祈願された。立派な神輿も出て、当時は大変賑わったという。現在は不動明王(手前)を祀っている。
春は神子畑沿いの桜並木が満開を迎え、写真スポットになっている。
神子畑小学校跡には体育館とグランド跡が残る。
一円電車や鋳鉄橋をイメージしたモニュメントが配された国道429号(鉱石の道)の橋。
ムーセ旧居前にある「サルスベリ」は県指定郷土記念物。開花時期は8~9月頃。
選鉱場跡から東へ、国道429号沿いにある国指定重要文化財「神子畑鋳鉄橋」。生野までの鉱石運搬のため、馬車道(鉱石の道)が整備された際に架けられた。