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じろはったんの舞台を歩く<朝来市和田山町宮田>(Vol.84/2012年10月発行)

童話『じろはったん』の舞台となった心優しき村
高台の寺院やお社、円山川沿いの堤防道…
物語に登場する但馬の原風景が目に浮かぶ

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じろはったんの舞台を歩く<朝来市和田山町宮田>

 『明石から汽車に乗って、はじめて、山陰線の養父駅でおりた。ちいさな、さびしい駅やった』
 これは知的障害のある青年を中心に、心のふれあいを描いた童話『じろはったん』の冒頭の一節。物語は語り手である「はな先生(わたし)」が駅を降り立った、昭和3年から太平洋戦争までを描く。但馬の方言で書かれた作品は、その時代の風景が目に浮かぶようである。
 じろはったんは知的障害のある青年だが、優しく純粋な心の持ち主。子どもの人気者である彼を、村の人々は温かく見守っていた。神戸からやってきた疎開児童にも、優しい心で接するじろはったん。作者である森はなさんは、こうした心のつながりを書きたかったと話している。
 物語の舞台となる朝来市和田山町大蔵地区(宮田)は作者が生まれた場所。はなさんは懐かしいふる里の山や川を思いながら、この作品を書いた。小学校教師として教べんをとった後、64歳で『じろはったん』を出版。日本児童文学者協会新人賞を受賞するなど、遅咲きの新人として名作を残した。生家は面影をとどめていないが、集落には物語ゆかりの場所が点在する。
 高台に立つ「法泉寺」は、集団疎開の子どもたちが暮らしたお寺。
 『ここからは、村がひと目にみわたせる… じろはったんは、この鐘つき堂の石段が、すきやった。』
 その言葉通り、寺からは大蔵小学校が望める気持ちのよい場所だ。
 兵隊に行く親友・新やんとの別れ、大好きだった石野先生と疎開児童との別れ…。鐘つき堂の石段はいつも重要な場面で登場する。きっとはなさんも、子どもの頃からのお気に入りの場所だったのだろう。
 庚申堂(物語では薬師堂)の裏手に登場する「泰山木」は実際にはないが、よく似た葉を持つ大木がそびえている。じろはったんは戦死した新やんを弔うため、泰山木の葉で作った舟を香住の海に流した。木蓮の仲間で、甘い香りがするそうだ。
 「じろはったんはモデルがいて、村の古老から話しを聞いたことがあります。知的障害の子どもですが、村にこのような子が生まれると、神の使いとして大切にしたそうです」とは、地元の足立さん。
 現在、地元では「じろはったん」の心のやさしさ、思いやりを軸とした村づくりを進めている。春には4回目となる「じろはったんウォーク」を開催。物語そのままに都市部との交流も積極的に行っている。
 また、作者が生前に居を構えていた加古川市の市民団体が「森はなの伝記を『NHK朝ドラへ』の会」を発足。朝来市も賛同し、署名は6万人を超えたという。「物語のテーマである慈しみの心を、たくさんの人に知ってほしい」と、大蔵自治協議会の森下会長は話す。
 現代人が忘れつつある心のふれあいを求めて、物語の舞台を歩いてみてはどうだろう。

法泉寺・庚申堂

物語の中で神戸の疎開児童と石野先生が滞在した法泉寺・庚申堂。戦後、寺では日曜学校が開かれ、子どもたちに人を慈しむ大切さが説かれていた。案内役の福山さんは「大蔵の人は昔から気性が穏やか。心やさしい風土が物語を作ったんではないか」と話す。

境内にある森はなさんの句碑

『蟹追いて 授業中なるに 帰り来ず』。

若宮神社

観音堂として登場する宮田の氏神である若宮神社。ツバキが群生しているから、ツバキ神社とも呼ばれている。最近では桜祭りも開催。昔から子どもの遊び場であり、秋祭りでは夜に子ども相撲が奉納される。かつてはかがり火を焚いて行われていた。

法泉寺の鐘つき堂

法泉寺の鐘つき堂はじろはったんお気に入りの場所。物語はこの場所ではな先生が孫に語りかけるところから始まる。

3階建てのモダンな旧道沿いの屋敷

3階建てのモダンな旧道沿いの屋敷は地区の地主であり、かつては大きな米蔵も建っていた。旧道沿いには大蔵地区の中心部として、旅籠や商店が軒を並べていた。また、円山川に近く、水運も発達していたそう。

大蔵村じろはったんの看板

大蔵こども園の横に設置されている。

「ふくち山、いつし、みや津」と書かれた古い道標

大正9年に設置されたといわれる道路元標は、道路の起終点を表す。市町村ごとに、役場といった中心地に置かれた。

糸井橋

昭和40年の台風で流出し、架け替えられた糸井橋。円山川沿いにあることから、水害も多かったという。