うだつを掲げた商家や趣のある八軒家、
広い工場跡地、但馬最古の漢学塾など、
大正時代、養蚕で栄えたまち並みを歩く
但馬の中央に位置する養父市八鹿町八鹿。JR八鹿駅から八木川左岸に沿った商店街は、大正から昭和初期にかけてまゆの集散地として賑わい、著しく発展したエリア。蚕糸業の黄金時代であった大正時代は県下一の養蚕の町であり、生糸取引の商いで隆盛を誇った。
駅から1キロほどの距離にある諏訪町は、養蚕町のシンボルというべき、グンゼの旧八鹿工場が大正3年(1914)に進出したことにより、商店や人口が増え、企業城下町として発展していった。
当時は1万坪を超える広大な敷地があり、昭和3年(1928)建設の事務所棟は流行を取り入れた上げ下げ窓を設置するなど、往時のモダンな様子を伝えている。
第二次世界大戦下の昭和18年からは川西航空機の協力工場となって、海軍の最新鋭機であった紫電・紫電改を製作。女学生や児童ら約1800人が集められ、胴体や尾翼、昇降舵が作られた。軍需工場としての歴史は、今では知る人が少なくなったエピソードだ。
戦後は絹織物の工場として再開し、昭和40年代までは「ガチャンと機を織れば、万のお金が儲かる」といわれたガチャマン景気に湧いた。
「当時は男子寮に女子寮が3棟、社宅は20戸ほどあり、3交代で機械が動いていました。昼間でも非番の人が歩いていて、若い女工さんが多く働いていたこともあり、それは賑やかなものでした」とは、案内をお願いした地元の田村甫さん。
ありとあらゆるお店が軒を並べ、成功の象徴とされる「うだつ」の数も多く、うだつを上げた八鹿商人の心意気を感じることができる。
こうした八鹿商人の基礎を築いたともいえるのが、現存する但馬最古の学校建築であり、平成22年に改修工事が行われた「立誠舎」。
商人の学問である石門心学を学んだ八鹿村の大庄屋・5代西村庄兵衛が、若者を集めて商業道徳を講義したことが元々の始まり。5代目が没した後の江戸時代後期、住民に請われた儒学者・池田草庵がその意思を継いで漢学塾を開き、宿南村に青谿書院を建てるまでの4年間、62名の門人をこの場所で教えた。後に京都府知事を務めた北垣国道も、立誠舎時代に入門した1人である。
草庵亡き後、門人たちは中等教育の場がないことを案じ、私立山陰義塾を開校。さらに明治30年、県立蚕業学校の設立に尽力し、これが現在の八鹿高校、但馬農高となった。立誠舎は八鹿の教育文化の源泉であり、この地に高校が作られたきっかけともいえる。
小高い丘の上に建つ立誠舎。ここからは八木川沿いに発展していった八鹿のまち並みがよく見える。通りには駅から通学する高校生の姿。その教育の意思は現代にも脈々と受け継がれている。
参考文献:『養父市まちの文化財』
氏神である「諏訪神社」の夏の祭礼が八鹿の夏祭り。但馬の夏祭りのトップに行われ、梅雨が明けるとされる。「オオスワジャ」のかけ声とともに、明治24年製作の神輿が練り歩く。
平成22年に改修が行われた「立誠舎」は、大庄屋・第5代西村庄兵衛の別邸。但馬聖人・池田草庵が青谿書院に移るまで教えていた場所で、青谿書院と共通点が多く、その原型とされている。生野義挙に参加した第6代庄兵衛は勤王の志士を支援し、平野国臣らの隠れ家ともなった。屋根瓦は島根の石州瓦を起源とする幻の八鹿焼きで、目玉がくり抜かれた鬼瓦が特徴的。
大正3年に郡是製糸株式会社の八鹿工場として建てられた。広大な敷地には、往時を偲ばせる事務所棟(但馬の近代化遺産)や古い木造建築の独身寮などが残っている。大正ロマンを漂わせる建物として、趣がある。