大名行列が行き交った京街道
偉人を輩出した弘道の森
かつての出石城内を歩く
江戸時代、1042畳にも及ぶ93の部屋があったと言われる出石城三の丸の対面所跡、出石町役場前の広場から京街道へと向かう。
最初のチェックポイントは出石城東門跡、ここまでは城の敷地内で一般町民は入ることができなかった所。一歩踏み出すと京街道、京都までは120キロの道のり、江戸へ向かう参勤交代の大名行列が行き、幕末には桂小五郎が出石の広戸甚助に導かれて京から逃げ延びてきたという道だ。
道の両側には、家々が軒を連ね、うなぎの寝床とも言われる間口が狭く奥行きが長い町家が続く。白亜と土の壁・千本格子などの施し、歴史的な町並みが残る。
さらに京街道を上ると沙羅双樹の花でも有名な経王寺につきあたる。出石の町は各街道や辻に、神社や寺院が多い。外部からの侵入を防ぎ、砦の役割を果たすために建立されたとされている。経王寺も高櫓や、塀には弓矢や鉄砲で敵を討つ狭間が設けられている寺の一つだ。
京街道から谷山川を渡り、弘道の森と呼ばれる路地へ入る。出石は年間100万人が訪れ賑わう観光地、出石城跡・大きな時計台の辰鼓楼・家老屋敷など名所史跡が多いが、弘道の森はあまり観光客も入り込まない穴場的スポットだ。
町中から谷山川を隔てただけで、人の手が加えられず、そのまま静かに時が流れてきたような閑静さがある。畑や草木が茂るのどかな景色、ひっそりと佇むのは弘道館の石碑。弘道館は、1775年(安永4年)藩主仙石政辰が開設したもので、水戸の弘道館よりも63年早い創設、出石藩が熱心な学問奨励を行っていたことが伺える。幕末から維新にかけて新しい時代を担う数々の偉人を輩出した。
代表的な人物では、明治天皇の進講役として欧米の政体制度やドイツ語の講義を行い、初代東京大学の総理となった加藤弘之、天気予報の創始者、桜井勉などが挙げられる。また、後に桜井勉を慕って上京した斎藤隆夫は、衆議院議員となり太平洋戦争中にあって、国会で粛軍演説を行った政党人としても有名だ。
さらに進むと諸杉神社へと抜ける。古事記・日本書紀に登場する但馬国生みの神様として信仰される天日槍の子ども多遅摩母呂須玖を祀っている。杉木立の中にある静かな境内。すぐ側の山肌には、出石城の苔むした石垣が迫る。ここはもう出石城の懐、城山公園を突き抜け、登城門、太鼓橋を渡ると役場前へ。ぐるりと一周、短い距離にも出石の歴史を知りながら歩くと興味深い散策ができる。
出石の歴史は、天日槍の神話にはじまり、室町時代、但馬の守護としてその拠点を出石に置き、全国の六分の一を治めるほどの栄耀栄華を誇った山名氏、織田信長の命により羽柴(豊臣)秀吉により攻め入られた戦乱の時代、碁盤の目のような町並みを築いた小出氏、さらに松平・仙石氏へと歴代城主を経て、五万八千石の城下町として、但馬の中心として栄えてきた。その歴史はそれぞれ数奇なつながりを持つ。
古い町並みを伝承する町に秘められた歴史をたどると時間をさかのぼる不思議な世界へ迷い込むようだ。
※記事の内容は1999年3月掲載当時のものです。