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関所・宿場町のなごり京街道を歩く<豊岡市但東町久畑>(Vol.43/2002年3月発行)

関所を前に宿をとる
旅の無事を傍らの石仏に祈り
明日は早朝より登尾峠を越え京をめざす

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関所・宿場町のなごり京街道を歩く<豊岡市但東町久畑>

 関所があった集落として知られる但東町久畑。元治元年(1864)蛤御門の変に敗れた桂小五郎が、京都から但馬へ逃げ延び、この関所で身分を見破られそうになったところを、出石の商人、広戸甚助に助けられたという話はあまりにも有名だ。
 山陰から京都へ最も近い京街道といわれ、大名の参勤交代をはじめ、旅や商いで多くの人々が行き交った宿場町。京へ向かうには、久畑から約6kmの登尾峠を控え、このまちで休憩や宿をとり、山越えの峠道をめざし旅立って行った。人が歩き、牛馬の背で物を運んでいた時代、京街道といっても道幅はわずか6尺、約2mほど。 道の両側には、宿屋や草履・草鞋を扱う荒物屋、食事処、造り酒屋、醤油、豆腐、麹屋、染め物屋などが軒を並べ栄えてきた。
 しかし、明治8年に大火がおこり、その面影の多くを焼失。鎮火にあたっては不思議な話が伝えられている。廻る猛火に手だてをなくした村人たちは、火伏の神を祀る愛宕神社へ行き、ご神体を運び出し、火が移ろうとしている民家の屋根の上にかかげ、鎮火を祈った。すると、急に風向きが変わり、ようやく消えたというものだ。それ以来、約130余年、神の加護に感謝し、毎年7月に太鼓を叩く練り込みや舞いを奉納している。
 また、明治5年には但馬で一番早い郵便業務を開始、数年後には久畑小学校、高橋村役場なども建てられ、高橋村10集落の中心的な役割を果たしてきた。その一方で、太平洋戦争では、悲しい歴史が残されている。「大兵庫開拓団」の悲劇だ。国策のもと高橋村を中心に開拓団が結成され、満州国浜江省蘭西県北安村に入村。わずか1年余りで、ソ連の参戦、敗戦の動乱に、生きて日本へ帰れる望みをなくし、集団自決入水したという事件だ。大兵庫開拓団殉難者345人の名前が中国から遙かふるさと久畑の一宮神社境内奥の碑に刻まれている。
 戦後の高度経済成長後は、高橋村を含む三村合併を機に行政の中心は移行。変化する社会情勢に対応しようと道路の改良改修を申請。道路は整備され、平成11年には念願の登尾トンネルも開通した。峠越えが容易になり、福知山まで車で約30分、夜久野や豊岡までもほぼ同じ時間で行けるようになった。
 京街道もバイパスの完成で車の通りが少なくなり、ほとんどの商店が店を閉めてしまったが、近年までのなつかしい店構えが残されている。 
 町並みを抜ければ、 すぐ山づたいの木漏れ日の山道へと入る。対面にはかつてめざしていた峠の山の頂きが見え、傍らには病魔を退散させ、福を招き、旅人の道しるべとなった庚申塔や、七面大明神、鬼子母神、毎日交代で旅人の安全を守るという31の神々を祀る祠がひっそりとある。
 多くの人はその存在を知らないが、すぐ真下の国道を勢いよく走り抜ける車や行き交う人々を、今も静かに見守っている。
※記事の内容は2002年3月掲載当時のものです。

山づたいの京街道

さながら江戸時代の旅人になったような気分。石敷きが京街道の証しを残すため、足元には石が敷き詰められている。

庚申塔

旅人の安全祈願と道しるべになった。

久畑大橋

昭和9年に架け替えられた久畑大橋。木の欄干の上りにはひらがな、下りには漢字で「京街道」と記されている。

一宮神社

大きなけやきの森の一宮神社舞台や土俵、境内の奥には、大兵庫開拓団殉難者の碑も佇む。

雪見ガラス

かつての旅館屋さんの飾り窓と木の手すり

かつての造り酒屋さんの白壁と朱色の格子