平家落人伝説が残る山間の里
木地師(きじし)たちが今も腕を奮いろくろを廻す
木の香りが立ちこめる静かな里を歩く
木地師(きじし)とは、昔、木地屋といわれ、「手挽(てびき)ろくろ」という道具を使って、盆や碗、膳、茶道具などをつくる職人のこと。木の材料を削るのは、細長い鉄の先を加工してつくった刃物で「ろくろ鉋(カンナ)」と呼ばれている。この「ろくろ」と「カンナ」を使いこなし制作する。
今は少なくなった木地師だが、竹野町三原では現役でがんばる木地師たちの姿があった。加悦忠嘉さんは生活の道具だけでなく、ひな人形や三重塔などの工芸品もつくっている。加悦忠雄さんはケヤキを使って盆の制作中。木の香りが立ちこめる作業場で、黙々とろくろをまわす二人であった。
山深き里、三原では、平家落人伝説が残っている。平家平(へいけなる)という地名が残り、そこに平家の落人が住んでいたという。また、屋敷跡が山中に残っているとも伝えられている。
三原では、わずかな田畑に米やソバをつくってきた。山菜がたくさん採れ、山の恵みを受けてきた。今はイノシシの被害除けの電気柵が、田畑に張り巡らされている。
50軒余りの三原の集落に、崑山(こんざん)さんの愛称で親しまれている墓がある。崑山さんとは曹洞宗のお坊さんのことだそうだ。
ある日、村人は崑山さんが雀を手のひらにとまらせて、米を食べさせているところに出くわした。「どうしたら、雀を手のひらにとまらせることができるのですが?」と村人が聞くと、崑山さんは「雀を見つけると捕まえようと思うだろう。その思いは雀に伝わってしまうものなのだ。殺生の心を持つ者は、雀もよく知っているのだよ」と答え、殺生はしてはいけないと説いたと伝えられている。
また、ある日、いつもいじめられていた息子が、継母の首を切って殺してしまった。その日から毎日、継母が現れ、困った息子は崑山さんへ助けを求めた。崑山さんは継母の霊を供養すると、ぱったり継母が出なくなったという。崑山さんの墓の横にある石が積まれた場所は、継母の墓だといわれ、首切りカカアと呼ばれている。
崑山さんにお参りすると、コロッと死ねる(苦しまずに死ねる)といわれているそうだ。
三原には宝寿庵(ほうじゅあん)という尼寺があったという。4代続いたが廃寺となり、現在は建物も何もなく、その面影を見ることはできない。宝寿庵の棟木板は公民館に残っているそうだ。
どうして、この山深い里へ人々は住み着いたのか?木地師たちの姿を見ていると、そこに答えがあるような気がするのである。
崑山和尚の墓のすぐ横にある石が積まれた場所は「首切りカカア」の墓といわれている
軒先に積まれた「つる」。カゴなどをつくるのに使われる。