商店、銀行、理容室、カフェーにテニスコート
「生活のすべてがそろう」鉄道の町には
大正・昭和のモダンストリートがあった
朝来市新井地区は、伊能忠敬の測量日記によると、かつて30〜40軒の農家があるだけの小さな村だったという。
その村がわずか10〜20年で、但馬でも有数の近代的な町へと変わった。鉄道の開通に伴って神子畑鉱山・選鉱場の恩恵を受けることになったのだ。
明治34年、当時養蚕業を営んでいた地元の有力者が敷地を寄付したことが新井駅設置の決め手だったという。以降、大正から昭和初期にかけて、新井は「鉄道の町」として栄え、活気に満ちていた。
県道70号線を1本西に入った旧道には、懐かしい佇まいの民家が残っている。
トタンを被せてあるが、どっしりと存在感を放つ茅葺き屋根、虫籠窓をあつらえた町屋風の民家。飾り格子の塀からは、丹念に手入れされた庭が垣間見える。
大正に入り、姫路方面から多数の商人が移り住むと、急速ににぎやかな市街地が形成された。昭和10年代の商店街の並びを見ると、呉服店、酒屋、自転車屋といった商店の他に、銀行や医院、銭湯など実に様々な建物が並んでおり、町並みの賑やかさがうかがえる。当時は「新井へ行けば生活のすべてが揃う」と言われたほどだ。
毎年桜の季節に祭りが行われる金毘羅神社の向かいの公園に「金毘羅遊園」と刻まれた碑がある。公園の脇にある通りは、鉱山夫や町の人が集まる娯楽の中心地だったそうだ。牛市が開かれる広場や芝居小屋、ビリヤード場にカフェー、さらにはテニスコートまであったというから驚きだ。まさに但馬一モダンな通りだったのではないだろうか。
新井の商工業が発展していく中、当時新井商工会にいた児島四郎右衛門氏が、将来の企業経営者を育てようと提案した。彼が時の商工大臣に資金援助を求める請願書を提出すると、いなかにもこのような考えを持つ者があるのか、と大変感心されたそうだ。
昭和13年に完成した店員道場では、小学校の校長先生や村の有志が講師を務め、若者たちを指導した。今も新井駅前にその建物が残っている。
ところで、新井の人たちは昔から「なまず」だけは食べないという習わしがあるとか。
江戸時代、度重なる円山川の氾濫を祟りと恐れた村人たちは、琵琶湖の白髭神社から分身を持ち帰り祀った。いつしか「髭」になぞらえ、なまずが白髭神社の使いと信じられるようになり、食べれば「罰が当たる」と、長年言い伝えられてきたのだ。
境内には、以前大きなケヤキの木があったが、昭和28年に台風で倒れてしまったという。地元の住民たちはこの大ケヤキを使って、現在の拝殿を建て直したそうだ。
倒れた木を利用して神社を新築、なんとも臨機応変で無駄がない考え方。これこそ商売人が集まった町ならではの発想ではなかったろうか。
切り立つ岩壁のお堂にある六体地蔵はこの場所の石でつくられたもの。実は後ろにも鎌倉形式と思われる一石六仏の地蔵があるという。