鉱夫の町として栄えた生野鉱山・奥銀谷地区
坑口や淘り池など、貴重な鉱山遺構が残る
歴史に想いを馳せながら、鉱山町を散策しよう
開坑1200年を誇る朝来市・生野鉱山。史跡「生野銀山」方面へ、国道を少し行くと、探検場所である新町・奥銀谷地区がある。
町の歴史は古く、『銀山旧記』という古文書の慶長5年(1600)のくだりには、「谷の狭い所へ京・大坂より商人が集まり、寸分の土地を争い軒を連ねて居住し、すべて板葺き・瓦葺きで、藁葺きなどなかった」と記されている。
周辺は江戸時代に隆盛を誇った太盛山を始め、数々の鉱脈が開発され、鉱山に従事する人々が移り住み、町は急速に繁栄していった。「口銀谷」が役人や商人が住む商業地だったのに対して、「奥銀谷」は鉱夫の町として栄えた。
明治29年、三菱合資会社の経営になると、市川沿いに社宅が建てられ、さらに人口が増えていった。最盛期の昭和20〜30年代、奥銀谷小学校は朝来郡一の児童数(約800人)を誇ったという。
町を歩くと、所々に鉱山町の面影が残っている。入り口にあたる新町区から旧道を入ると、なだらかな上り坂が続く。ここはかつて「坂町」と呼ばれていた場所。趣のある格子戸、古い佇まいを見せる民家が点在する。新町はその名の通り新しく開けた町で、鉱山が栄えるにつれて市川上流より家々が建ち並んでいった。
坂を上りきった山側には、「桐ノ木稲荷」が鎮座する。この神社は、坑道採掘時の水抜き穴が貫通したことを祝い建立されたもので、本来は「切抜稲荷」と呼ぶのが正しいそうだ。山の斜面一帯には小さな坑道が数多くあり、冬には白い蒸気が何本も立ち上るのだという。
本来寺・境内のお堂には、山神として祀られてきた「毘沙門天像」が安置されている。これは江戸時代、代官所から銀山の採掘権を与えられた山師(経営者)たちが守ってきたもの。当時、約500もの坑道があり、それぞれに山師が存在し、山神を祀ってきたという。
小学校の隣にある「大用寺」は、市指定文化財の「十六羅漢」で有名な古刹。作家・立松和平氏と縁の深い寺としても知られている。
立松氏の曾祖父である片山市右エ門は、生野でも腕利きの鉱夫だった人物。曾祖父をモデルにした小説『恩寵の谷』は、当寺に片山家の墓が残っていたことを知って執筆したものだ。明治初めの生野銀山、足尾銅山を舞台にした鉱夫たちの生き様が描かれている。
市川の河原に点在する不思議なくぼみも、鉱山の遺構物。人為的に掘られた穴は、かつての淘り池の跡だ。汰物師という女性が上流から流れてきた石くずをこの水たまりで木鉢にかけて選別し、生活の足しに売っていたという。「子供の頃、くぼみに溜まった砂を振るうと古銭が見つかったものだ」と、案内役の佐藤さんが教えてくれた。
生野鉱山とともに生きた人々の息吹が聞こえてくる奥銀谷。歴史に想いを馳せて通りを歩くと、鉱山で働く人たちの生き生きとした表情が浮かんでくるようだ。
明治時代、鉱山開発に尽力したフランス人技師たちが母国から持ち寄ったアカシアの木が育つ中、「次の百年はマロニエで」という佐藤さんの提案で植えられた。縁あって東京・赤坂の秩父宮邸から移植されたもので、屋敷から運び出される際、トラックのバックミラーには妃殿下の姿がいつまでも映っていたというエピソードが残る。
汰物師という女性たちは、この穴に溜まった石くずを選別して、少しでも生活の足しになるよう精錬所に売っていたという。江戸時代、鑑札を持った人が約60人ほどいたといわれ、税金も納めなければならなかった。
容姿がそれぞれに異なり、野仏の表情は豊か。常に命の危険にさらされた鉱山で働く人々が、延命を誓ったという。境内には作家・立松和平氏の寄進による「恩寵の鐘」や小説の一節を刻んだ石碑が建立されている。
古くから酒造業を営んでいた。周辺には、山師といわれる鉱山経営者たちも住んでいた。
鉱山施設の動力用として、明治9年に築造された送水路跡。旧鉱山本部まで続いていた。
市川の対岸沿いには、鉱石を運んだトロッコの軌道跡が残る。山の斜面には坑口が点在している。
下箒(したぼうき)と呼ばれる市川と白口川の合流地点は、急流となる難所だった。流れを弱めるため、地元では亀石と呼ばれる築堤が造られた。