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但馬聖人・池田草庵ゆかりの地を歩く<養父市八鹿町宿南>(Vol.72/2009年10月発行)

但馬聖人・池田草庵が生まれ育った地
ここから日本の未来を担う若者たちが巣立った
庄屋屋敷や養蚕農家、狼伝承が残る町を歩く

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但馬聖人・池田草庵ゆかりの地を歩く<養父市八鹿町宿南>

  円山川と平行して走る国道312号沿いの田園地帯を抜けると、養父市八鹿町宿南がある。周辺には古墳や経塚が発見されていることから、古くから人々の営みがあったことがうかがえる。
 南北朝時代には、当地を治めた宿南氏によって、集落の裏手にある大松山に山城が築かれた。この城は戦国時代に、羽柴(豊臣)秀吉の弟・秀長による但馬征伐により、落城の憂き目にあったとされる。
 ふもとにある田中神社は城主・宿南氏の居館があったといわれる場所。狭い路地を抜けると、広々とした境内が広がり、当時の繁栄ぶりを表している。
 「馬場」や「屋敷」といった往時を伝える地名の他、「掃部狼婦物語」という昔話も語り継がれている。
 今から約550年前(室町時代)、高木掃部という侍とその妻に助けられた狼が、諏訪大明神のご加護により霊力を賜り、掃部の妻に化けて、掃部やその子供にふりかかる災いから身を挺して守るという物語。
 集落の奥には掃部の屋敷跡と伝わる「掃部之塚」と彫られた石碑や、狼が霊力を授かった諏訪神社跡といった物語の地が残っている。
 宿南氏の没落後は、代々西村家が出石藩の大庄屋として村の発展に力を注いできた。
 宿南ふれあい倶楽部は、西村家の庄屋屋敷を改築したもの。現在は福祉コミュニティ施設として、地区の人々の憩いの場となっている。
 また、宿南地区は、「但馬聖人」と呼ばれた幕末期の儒学者・池田草庵の生誕地として知られている。
 集落の西側に位置する「青谿書院」は草庵が弟子を育てた場所。弘化4年(1847)草庵35歳の時、自分の生まれた宿南村に念願の学舎を建て、後進の指導や育成に努めた。
 草庵はここで門人たちと寝起きをともにし、自ら模範を見せることで、知識と実行を兼ね備えた人間の育成に心を砕いたという。
 書院を目の前にすると、まさに質実剛健という言葉がふさわしい。周囲はのどかな田園が広がり、静寂さに包まれた学舎内は、背筋が伸びるような佇まいを見せる。
 勉学に励むには最適な場所といえ、今にも若者たちの熱い息吹が聞こえてきそうな雰囲気だ。こうした環境が、明治の近代化を担った多くの人材を育てたのだろう。

青谿書院

池田草庵が郷里の宿南村に建てた漢学塾「青谿書院」。延べ700人に達する但馬内外の子弟を教育した。門下生からは日本金融界の基礎を築いた原六郎や琵琶湖疎水を開いた北垣国道、日本近代眼科の父・河本重次郎など、明治・大正期に活躍した逸材を多数輩出した。

ロウソクで勉強したススの跡

便所の扉の内側には、門人たちが寝る間を惜しんで、夜10時の消灯後にもロウソクで勉強したススの跡が残っている。

中央流れる三谷川

川を境に「川東」と「川西」地区に分かれている。

田中神社

宿南氏の居館跡と伝わる田中神社。広々とした境内には、大きな石灯籠が建てられている。

宿南家住宅

茅葺き屋根が残る「宿南家住宅」。享和3年(1803)建築で、養蚕が盛んに行われていた養父市の中でも、最古の養蚕農家住宅とされている。養蚕農家の初期の形態を残す稀少な建物で、平成20年、県の重要文化財に指定された。

高木掃部之塚

当時には室町時代、高木掃部という侍が狼の恩返しを受けた「掃部狼物語」の伝承が残る。