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ノスタルジックな旧明延鉱山町を歩く<養父市大屋町明延>(Vol.78/2011年4月発行)

4千人もの人々が暮らしていた旧明延鉱山。
今も坑口跡や社宅跡、共同浴場跡などが残る
古き良き時代の町並みをじっくりと歩く。

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ノスタルジックな旧明延鉱山町を歩く<養父市大屋町明延>

 「日本一の錫鉱山」として、日本の高度経済成長を支えた養父市の明延鉱山。鉱山が賑わっていた昭和30年代には、4千人もの人々が暮らし、社宅は780戸もあったという。今回は、昔の面影を伝える近代化遺産が佇む明延の町をじっくりと歩いてみた。
 集合場所となったのは、拠点施設である「あけのべ自然学校」。ここはかつての明延小学校を再利用した自然体験施設。元のグラウンドには、地元の木材で建てられたあけのべドーム「森の館」もあり、自然学校を中心として子どもたちを受け入れている。
 「800人もの児童がいたんですよ」とは、ガイドをお願いした自然学校インストラクターの中尾一郎さん。裏山にも校舎があったそうで、屋根付きの昇り階段で行き来をしていたそうだ。北は北海道、南は沖縄まで、全国からヤマの男たちが集ったため、関西では珍しい名字の人も数多くいたという。
 自然学校の入り口にある丘の上にあるのは、鉱山の発展と安全を祈った山神さんの跡。山祇神社の総本社である愛媛県・大三島の大山祇神社から祭神をお迎えし、桜の咲く頃には人気歌手を呼んで盛大なお祭りが行われていた。
 ここから明延川を越えると、いよいよ集落に入る。最初に案内された場所は、「旧明盛共同浴場」。昭和初期頃の建設とされ、レトロな外観は当時のままだ。
 通称を「第一浴場」といい、6カ所も共同浴場があったが、運よくこの浴場だけが残された。鉱山の社宅には風呂がなく、まさに芋の子を洗うようにごったがえしていたそうだ。
 第一浴場の前には、独身寮であった「明和寮」の石垣跡が残る。東京の本社から東大出のエリートが入寮してきたそうで、子どもたちを相手に塾も開かれていた。
 「最新の文化や知識が明延に入り、教育に関してとても熱心でした。海外出張から帰ってきた社員さんが、外国の様子をスライドで見せてくれ、大変驚いたものです」と、中尾さんは当時を振り返る。
 町にはスーパーや百貨店、理容店も4軒あったといい、生活に必要なものはたいてい揃った。それでも物資が足りず、休みには姫路から行商がきていたほど。総合病院や役場の出張所の他、映画館、ビリヤードなどの娯楽施設もあり、現代のニュータウンに匹敵する町であった。
 今でも料亭を思い起こす古い住宅、味のある商店の看板、山の斜面に段々と建ち並ぶ旧鉱山社宅など、ノスタルジックな町並みが広がる明延鉱山町。まるで宝探しをしているかのような町歩きを楽しむことができる。じっくり歩けば歩くほど、懐かしさと出会える場所であった。
協力:養父市立あけのべ自然学校

明神電車「しろがね号」

明延鉱山から朝来市の神子畑選鉱場までの約6キロの区間を運行していた「明神電車」。昭和20年に鉱山従業員の通勤用として運行を開始した。明延振興館前には「しろがね号」が展示されている。

明盛共同浴場(第一浴場)跡

国の近代化産業遺産にも認定されている「明盛共同浴場(第一浴場)」跡。かつては6カ所も浴場があった。「場」の文字が旧漢字なのも時代を感じさせる。内部は改造されているが、外観は当時のまま残っている。

北星鉱山社宅

山の斜面に建てられた北星鉱山社宅(現・北星市営住宅)。最盛期には4千人もの人々が暮らしており、川を挟んで向かいの山にも社宅があった。現在はそのほとんどが取り壊され、市営住宅としてわずかだけ残っている。当時の面影を残す貴重な産業遺産といえる。

レトロな看板

左官職人の心意気が伝わるタバコ屋さんの看板。龍の口からはかれた炎が文字に!!

両松寺の梵鐘

明延鉱山産出の銅で造られた梵鐘が残る両松寺。文禄5年(1596)の銘文が刻まれている。余韻が他の鐘とは違うそうだ。

坑道探険

坑道探険ではむき出しの岩肌や削岩機など、当時のままの姿を見学できる。