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生野銀山町を歩く<朝来市生野町小野>(Vol.94/2015年4月発行)

生野銀山とともに栄えた銀山町・小野
白壁に虫籠窓、格子戸、風情のある通り
山師たちが住んだ鉱山のまち並みを歩く

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生野銀山町を歩く<朝来市生野町小野>

 大同2年(807)に開坑したと伝わる生野銀山。日本有数の鉱山として隆盛を極め、明治以降は近代化を支える原動力となった。
 観光坑道として一般公開されている金香瀬坑(現シルバー生野)のある金香瀬山は、生野で本格的に銀の採鉱が始められた戦国期から昭和48年の閉山まで、採鉱の中心だった場所。その入り口にあたる小野地区は、生野銀山町の中でも最初に形成されたまちである。
 天正13年頃(1585)、金香瀬坑の上方に間歩(坑道)が開け、小野に民家が建ち並び始めた。銀山とともに栄え、住民の9割が鉱山関係者だったという。その後、江戸時代に入り徳川幕府直轄となると、「白口千軒」と呼ばれた白口の樫木・若林などの坑道が開発され、奥銀谷、新町といった銀山町が次々にできていった。「銀山七か町」といわれた7つのまちは、銀山と密接な関係を保ちながら発展した。
 「小野は生野銀山町の中で、最も古いまち。現在は50軒ほどだが、最盛期には200軒もの家があった」と話すのは、案内役の藤原光幸さん。生野鉱山で発破(火薬)採鉱に従事していたという藤原さんは、御年95歳。生き字引として知られ、背筋をピンと伸ばして歩く姿はかつての山男を感じさせる。
 金香瀬山をはじめ周辺の山々は、小野地区が所有していたこともあり、幕府領となった後は、「山師」と呼ばれ、実力のあった間歩の経営者たちが、まちにはたくさんいた。
 集落南側はかつて「大野町」と呼ばれ、江戸期から明治初期にかけての大山師・大野家の邸宅があった所。享保20年(1735)には、大野友右衛門の経営する山が、出鉱量の多い坑道である「御所務山」の称号を生野奉行所から与えられた。これを祝い、「御見石」の山車に使われた「飾幕」が市の文化財として今でも残っている。
 他にも夕(井)瀬町、河原町といった地名があり、長屋や商店、飲み屋が建ち並んでいたそうだ。
 「芝居小屋もあって、大変賑やかだった。昭和の初め頃からタクシーの待合所もあり、車を後ろから押してエンジンをかけるのをよく手伝ったもんだ」と、藤原さん。
 氏神である熊野神社は、集落の北側にある竹原野地区の内山から移されたもの。立派な本殿には見事な彫刻が施され、当時の山師たちの力を知ることができる。
 歴史ある小野のまち並み。昔話に想いを馳せて歩くと、まるで銀山町の面影が蘇ってくるようだ。

熊野神社

地区の氏神である熊野神社は、竹原野地区の内山より遷座したと伝わる。寄進された灯籠や玉垣は、往事の繁栄を物語っている。本殿の龍や獏の彫り物も見事なもの。

趣のある民家

通りには長屋の佇まいや白壁に虫籠窓の古民家、格子戸など、かつての面影を残す趣のある民家が点在している。

情緒ある家々

虫籠窓や格子戸など情緒ある家々。

史跡生野銀山

1,200年前の銀発見から昭和48年の閉山に至る歴史を伝える「史跡生野銀山(有料)」は、地底に繰り広げられた壮大な文化遺産。観光坑道として一般公開されている。「金香瀬坑」は、約1キロに渡り明治以降の近代的坑道と江戸時代以前の手掘り跡を同時に見学できる。江戸時代の露天掘り跡「慶寿ひ(右)」は、銀山町の歴史を知る上でも重要な遺構である。

粟嶋神社

旧西光寺の境内に祀られている粟嶋神社。婦人病治癒を始め、女性のための神様として有名。かつてお祭りにはおいらん道中があり、大変賑やかだった。

お地蔵さん

地区の中心にあるお地蔵さん。ここを起点に町名が分かれていた。

鉱山町らしいまち並み

赤褐色の「生野瓦」や、鉱石を製錬する際にできたカスを固めた「カラミ石」の擁壁など、鉱山町らしいまち並みが残る。

山名氏ゆかりの弁天社

熊野神社の境内には、戦国期に生野銀山を支配した但馬国守護・山名氏ゆかりの弁天社もある。

玉光稲荷神社

玉光稲荷神社は境内の中心にあったが、熊野神社の遷座に伴い、現在地に移った。社の前にはモミの巨木がそびえる。

簡易水道を引くために作られた吊り橋

鉱山で使われるケーブルが流用された。