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けいのどうたく
気比の銅鐸出土場所(豊岡市提供)
気比の銅鐸出土地(2020協会撮影)
銅鐸は弥生時代の儀式や祭りの場で使われた祭器と考えられている遺物である。1912年(大正元)9月、気比村字溝谷(鷲崎わしざき)の石切場で4個の銅鐸が発見された。同年11月には、宮内省から東京帝室博物館へ提出の指令が出され、現在は東京国立博物館の所蔵品となっている。 これらの銅鐸は、巨岩の背面にある小岩窟の中で、河原石や貝殻類を敷き並べた上に置かれていたという。いずれも流水紋(S字状に曲がった幾何学文)が表現されている他、シカや人物なども描かれている。その内の3号銅鐸は、大阪府茨木市の東奈良遺跡から出土した鋳型で製作されたことがわかっている。 また、2号銅鐸は島根県の加茂岩倉5号銅鐸と、4号銅鐸は加茂岩倉21号銅鐸や、大阪府堺市付近で出土したと伝えられる銅鐸などと同じ鋳型でつくられている。 このように気比の銅鐸は、銅鐸の生産や流通を考える上で、きわめて重要な資料である。
銅鐸は弥生時代の儀式や祭りの場で使われた祭器と考えられている遺物である。1912年(大正元)9月、気比村字溝谷(鷲崎)の石切場で4個の銅鐸が発見された。同年11月には、宮内省から東京帝室博物館へ提出の指令が出され、現在は東京国立博物館の所蔵品となっている。
これらの銅鐸は、巨岩の背面にある小岩窟の中で、河原石や貝殻類を敷き並べた上に置かれていたという。いずれも流水紋(S字状に曲がった幾何学文)が表現されている他、シカや人物なども描かれている。その内の3号銅鐸は、大阪府茨木市の東奈良遺跡から出土した鋳型で製作されたことがわかっている。
また、2号銅鐸は島根県の加茂岩倉5号銅鐸と、4号銅鐸は加茂岩倉21号銅鐸や、大阪府堺市付近で出土したと伝えられる銅鐸などと同じ鋳型でつくられている。 このように気比の銅鐸は、銅鐸の生産や流通を考える上で、きわめて重要な資料である。