禅僧 沢庵和尚(宗彭)
たくあんおしょう(そうほう)
沢庵和尚肖像(宗鏡寺蔵)
沢庵和尚の墓(2020協会撮影)
所在地 | |
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文化財指定 | |
問い合わせ | |
関連サイト | https://sukyoji.com/ |
備考 |
豊岡市出石町生まれ (1573〜1645) (見学可能施設) 宗鏡寺 TEL0796-52-2333 |
たくあんおしょう(そうほう)
沢庵和尚肖像(宗鏡寺蔵)
沢庵和尚の墓(2020協会撮影)
所在地 | |
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豊岡市出石町生まれ (1573〜1645) (見学可能施設) 宗鏡寺 TEL0796-52-2333 |
たくあん漬けの考案者とも重用者ともいわれる禅宗の名僧。出石城主山名氏の重臣秋庭能登守綱典の長男として生まれた。(生地については数説ある)その後、山名氏は羽柴秀吉に攻められて滅亡し、沢庵8歳の時、父は浪人となった。沢庵は10歳にして出石の浄土宗の唱念寺で出家し、春翁と称した。
その後、苦労しながら修行を積み重ね、1607年(慶長12)沢庵が37歳の時に、前例のない若さで大徳寺154世住持に出世した。しかし、生涯野僧に徹すべしとして、自らわずか3日間で下山。京都、大和地方を流浪修養したが、1620年(元和6)48歳の時、郷里出石の宗鏡寺へ帰り、寺の裏山に「投淵軒」という四畳半の庵を建て、閑居生活に入った。この投淵軒閑居の7年間に多くのふるさとの詩歌や論文を著している。
1627年(寛永4)、世にいう「紫衣事件」が勃発。沢庵は大徳寺に駆けつけ、たちまち全山を幕府への抗議派に統一し、抗議書を自ら書き幕府に提出した。これが幕府を怒らせ、1629年(寛永6)、出羽上ノ山へ流罪となった。3年後に許され、その後大徳寺に帰ったが、宗教界第一人者としての名望は高まるばかりであった。3代将軍家光は沢庵を招き帰依した。家光と沢庵の親密な関係は文献にも残っている。
1645年(正保2)12月、沢庵は万松山東海寺(東京都品川区)で没する。時に73歳であった。死ぬ前に残す言葉を弟子が求めると、自分で筆を取り「夢」の一文字を書いて息を引き取ったといわれる。