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沢庵和尚肖像(宗鏡寺蔵)

沢庵和尚の墓(2020協会撮影)

 たくあん漬けの考案者とも重用者ともいわれる禅宗の名僧。出石城主山名氏の重臣秋庭能登守のとのかみ綱典つなのりの長男として生まれた。(生地については数説ある)その後、山名氏は羽柴秀吉に攻められて滅亡し、沢庵8歳の時、父は浪人となった。沢庵は10歳にして出石の浄土宗の唱念寺で出家し、春翁と称した。
 その後、苦労しながら修行を積み重ね、1607年(慶長12)沢庵が37歳の時に、前例のない若さで大徳寺だいとくじ154世住持に出世した。しかし、生涯野僧に徹すべしとして、自らわずか3日間で下山。京都、大和地方を流浪修養したが、1620年(元和6)48歳の時、郷里出石の宗鏡寺すきょうじへ帰り、寺の裏山に「投淵軒とうえんけん」という四畳半の庵を建て、閑居生活に入った。この投淵軒閑居の7年間に多くのふるさとの詩歌や論文を著している。
 1627年(寛永4)、世にいう「紫衣しえ事件」が勃発。沢庵は大徳寺に駆けつけ、たちまち全山を幕府への抗議派に統一し、抗議書を自ら書き幕府に提出した。これが幕府を怒らせ、1629年(寛永6)、出羽でわ上ノ山へ流罪となった。3年後に許され、その後大徳寺に帰ったが、宗教界第一人者としての名望は高まるばかりであった。3代将軍家光は沢庵を招き帰依した。家光と沢庵の親密な関係は文献にも残っている。
 1645年(正保2)12月、沢庵は万松山東海寺(東京都品川区)で没する。時に73歳であった。死ぬ前に残す言葉を弟子が求めると、自分で筆を取り「夢」の一文字を書いて息を引き取ったといわれる。

所在地
文化財指定
問い合わせ
関連サイト https://sukyoji.com/
備考 豊岡市出石町生まれ
(1573〜1645)

(見学可能施設)
宗鏡寺 TEL0796-52-2333