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きたがき くにみち
生家跡にあるヒダリマキガヤ(2012ふるさと特派員撮影)
明治の政治家。養父市能座のうざの庄屋・北垣家の長男として生まれた。若くして儒学者池田いけだ草庵そうあんのもとで学んだ国道(通称は晋太郎)は、幕末、尊皇攘夷活動にのめり込み、学友の原六郎はらろくろうらとともに「生野義挙」に参加するが失敗。因幡いなばに逃れた国道は、名前を変えて鳥取藩に仕官した。戊辰戦争の北越征討軍に参加し、新政府から認められたのが、官界に入る第一歩となった。 元老院少書記官、高知県令、徳島県令などを経て、1881年(明治14)京都府知事に就任。在任中、幕末の動乱で荒廃した京都を復興させるべく、疏水工事を計画した。琵琶湖の水を京都市内に引く疏水工事を完成させ、その後の京都の産業開発に大きく貢献した。のち北海道庁長官、拓殖務次官、貴族員議員、枢密院顧問官を歴任し、明治の新国家建設に尽力した。
明治の政治家。養父市能座の庄屋・北垣家の長男として生まれた。若くして儒学者池田草庵のもとで学んだ国道(通称は晋太郎)は、幕末、尊皇攘夷活動にのめり込み、学友の原六郎らとともに「生野義挙」に参加するが失敗。因幡に逃れた国道は、名前を変えて鳥取藩に仕官した。戊辰戦争の北越征討軍に参加し、新政府から認められたのが、官界に入る第一歩となった。
元老院少書記官、高知県令、徳島県令などを経て、1881年(明治14)京都府知事に就任。在任中、幕末の動乱で荒廃した京都を復興させるべく、疏水工事を計画した。琵琶湖の水を京都市内に引く疏水工事を完成させ、その後の京都の産業開発に大きく貢献した。のち北海道庁長官、拓殖務次官、貴族員議員、枢密院顧問官を歴任し、明治の新国家建設に尽力した。